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本格ミステリ大賞2017への投票

 本格ミステリ大賞の投票をするため、今年も候補作を購入して読むことにしたわけだ。  評論については、評論という枠組み自体に懐疑的なこともあり、そもそもそれを評価することなどできそうにないので最初から棄権するわけだが、小説の方は、なにしろ本格ミステリ作家クラブに入会するということは、これに投票することである、と承知しているので、かなうならば参加したいと思うのである。  もっとも、近年では私をこの会に誘った二階堂氏なども退会しており、ここに私がいるべきかどうかについて迷ったり悩んだりすることも多い。毎年、今年こそは退会しようか、と考えるのだ。が、たぶん自分が作家であると思っていてもかまわない空間であるところの授賞式に参加したい、ということなのかもしれない。ことあるごとに自分はもう作家ではない、と公言もし自分でもそう思うが、幼い頃のあこがれの職業についた、という感覚の名残でもあるのだろう。みっともないことだがしょうがない。一度だけだが賞にノミネートされたこともあるのだし。  で、まあ、候補作を読むことにする。  が、今年はきつかった。  というのも、 候補作のいずれも、私の趣味には合わなかったからだ。読み進めながら、徐々に「なにがどうなってもどうでもいい」感覚が強くなり、真相というのが提示されても驚きもせず面白くも感じなかった。  もちろんこれは、私自身の感覚に根ざすものであり、候補作それぞれが悪いというのではない。昔から私は、ある種の本格ミステリが嫌いなところがあり、今年はその傾向が強かったということなのだ。そういう本格を好む人がいることも承知しているし、またそういう小説こそが本格の真髄であると思う人もいるだろうし、そうかもしれないとすら思うのである。けれど私は苦手なのだ。嫌いなもの苦手なものを評価できはしないのである。  とはいえ、せっかく購入し読み終えたのだから、それぞれの作品について思うところがないでもない。せめて、どのように苦手であるのかについて書き記しておこう。  まずは、『涙香迷宮』だ。  この作品で嫌いなのは、黒岩涙香が実在の人物である、というところだ。しかし一方、起こっている事件は虚構であり、肝になる暗号というやつも、この構造からいって涙香作ではないだろう、と思える。こういう、現実と虚構の混淆具合が嫌いのツボにはまるのである。  つまり、「本当」をうやむやにするものが嫌いなのだ。虚構なんてのは、いくらでも自由に改変が可能で、だが一方、現実の方は本来、変えてはいけないものだ、というふうに私は考えているのである。そのふたつが混ざり合うと、なにがどうだか分からなくなる。そのことが不安を誘うのかもしれない。いや、不安に誘う効果を持つ作品、というのが悪いのではない。ただ、この種の不安は、虚構と現実が解け合う形になっている、この現実そのものへの不安なのだ。そういう不安な状況を助長するような感触がある作品を、いつの頃からか私は大嫌いになった。  いや、この作者がウロボロスシリーズを書いた人だということは承知している。『匣の中の失楽』なら、大好きな作品だったし、あれだって現実と虚構の相互関係が肝になっているではないか、と思う。いや、だから、それこそを問題視するのなら受け入れられるのだろう。そこにある不安こそを取り扱うなら興味深いと思うのだろう。けれど『涙香迷宮』は、現実を取り込んだ虚構をなんのてらいもなく扱っている。作者が作ったに違いないいろは歌を涙香が作ったかのごとく扱って、あまつさえ登場人物に「すごい」などと言わせている。これには乗れない。なんだか分からないがひどくガッカリした。  暗号うんぬんではなく、そういう評価をすること自体が正しくないのかもしれないが、いずれにせよ私には評価不能なのである。  まあ、えらい手間のかかった作だなあ、とは認めるのだけれど。  次に『おやすみ人面瘡』だ。  これは人面瘡の設定に途中で白けた。こいつは虚構が虚構らしい話だ。だから人面瘡という設定そのものには白けない。どんどん増えていって、やがて誰がだれやら分からなくなる、というのもかまわない。なんなら巨大化したっていいだろう。けれど、なにがどう巨大化したら怪物のように動けるのだろう。どういうふうに栄養を摂取しているのかだって気になる。だが、そこがただのおぞましいイメージだけで処理されていたように思う。そういうイメージで書いた方が、読者に対する訴求力がある、言い換えれば「面白い」と思う、かもしれない。が、そういうところで「作者の都合」を使っていたら、推理なんてのにつき合うのは馬鹿らしい、と思う読者だっているのだ。  だから、せっかくのラストのどんでん返しも、私にはとってつけたもののように感じてしまった。  ところどころ興味深い展開や感覚もあったので、ひとまず残念ではある。まあ、こういう作品を読むと、自分の感覚の偏狭さがあぶり出されてくるなあ、という感慨などもわく。どうやら私は、SFと本格のハイブリッドにきわめて厳しいらしい。  次は『誰も僕を裁けない』だ。  一言で表現すると、「なんだか落ち着かない」だ。  いろんな面白要素がちりばめられているように思うのだが、その要素の面白がり方に乗れなかった、という気分である。いや、ある意味この作者のやっていることは、かつての私のやっていたことに近しい気がする。記号的な本格ミステリのやり口と、なればこその利用法みたいなところが、評価の軸になりそうだし、そこに面白さを見出すのも「分かる分かる」で、その記号性の嘘くささを、なんとかして感じにくくしようとする工夫も理解できる。  けれど、だからなのだろうか、まず最初の新本格的記号性そのものを評価軸に据えるような作品作り、というあたりに、その当然さに、苦手さを感じてしまうのだ。落ち着かなくなるのである。ある種のトラウマみたいなものがあるのかもしれない。というわけで「ごめんなさい」だ。  さて次は『悪魔を憐れむ』である。  作者は私と同世代で同じようなデビュー時期であり、しかし私と違ってきっちり作品を書き、発表し続けてきた人だ。私が批判すべきところなどない、と言っていい。  だが、だからだろうか、私はこの作品群を、あたかも自分が書いているかのごとき感覚で読んでしまった。すると、ひどくつらくなったのだ。  事件を考える。それは、書かれるに足る事件でなければならない。そこには、面白いと思えるような事情、謎がなければならない。そうして、それを面白く思ってもらえるように書かなければならない。  プロの作家としては当然の条件付けである。ミステリを書くのだ、本格のフレームで読んでもらうのだ、それを読者に売って、なおかつ読んだ後に「また読んでみたい」と思うような仕上がりにしなければならない。  そういう、どうでもいいことを感じてしまうのだ。  なんとなれば、そこに「売り」を作るために「出来なくなること」があって、あるいは「多少無理でも強引に通してみせる」ことがあると、勝手に思ってしまうからだ。自分ならどうする、という思考の先に、必ずそういうものがあるからだ。  作者がどう考えているかは分からない。が、私の感覚では、収録作品はいずれも、面白く書かねばならないために無理を(ないしは説明不足を)承知で通している感じがつきまとった。そうして、そのために作品のスタイルが規定され、そのスタイルがひどく「言い訳」めいて感じられてしまった。  むろん、こういうのはまともな読書ではない。だから批判にはならないと思う。だが、私が評価する、というスタンスからは評価不能と言うしかないのである。  最後は『聖女の毒杯』である。  申し訳ないことだが、この作品のみ発売直後に読み終えていて、しかし今回の投票に際して読み直したりしなかった。もし読み直すとしたら、投票作をこれに決めるために評価方法を探すみたいな邪道をしそうだったから、でもある。いや、やっぱり面倒だったからか。  初読の時には気に入らなかった。なぜ気に入らなかったのかは覚えている。それを確認するために読むのは苦痛であった。まあ、そういうことだ。  なぜ気に入らなかったのか。  期待したものと違ったから。身も蓋もない。  いや、期待が大きすぎた。同じ作者の前二作は発売後すぐに読んでいて、大いに面白く思った。そこで繰り広げられているのは、私にとって期待するべきものであるように思えた。一作目で提示され、二作目で実践してみせ、ならば三作目はホップステップジャンプのジャンプにあたる作品だと、勝手に期待していたらしい。  なにを期待したのか。  本格ミステリというフレームの拡張、もしくは可能性の限界を見せてくれそうに思えていたのだ。だが、実際の作品は、ジャンプではなかった。ホップステップきれいにステップ、という感じだった。二作目にやってみせたことをより堅実に書いてみせた、という感じだった。  ガッカリした。  一作目では、本格ミステリのやり口を整理して見せて、その上にきれいなフィニッシュがされた。  二作目では、一作目で見せた「キャラ小説としてのミステリ」フレーバーを、記号化して取り扱い、あざといように見えるが、なればこその「取り扱い技法」を提示しているように感じられた。これまで本格ミステリの諸作が苦労してきた、キャラ性と論理性の扱いを、同等に記号化することで同じ土俵に上げ、過去の作品が必死に組み上げていたスパゲッティプログラミングのようなやり方を、構造化プログラミング手法に耐える状況に変えてみせた。と、私には思えたわけだ。  ならば三作目に期待するのは、実際に構造化プログラミングされた本格ミステリだ。  だが、現実に提示されたのは、二作目の完成度をあげてみせる、という方向性だった。ということは、私の期待そのものが勘違いだった、ということになる。  いや、それが「プロ作家としてやってゆく」ための妥当な方向性だったのだ、とまで感じてしまう。  というわけで一方的にガッカリしたのである。  いや、正直なところ構造化プログラミングされた本格ミステリというのが具体的にどういうものであるのかを私は想像できていない。そっちに道がありそうだ、という感触だけはあるけれど、見えているわけではない。私は自分の限界を、私より限界が深いところにありそうな若い人に押しつけるかのように期待しているだけなのかもしれない。それは、なんともみっともない話だ。  ともあれ、というわけで、ガッカリしてしまった作品を高く評価することはできなかった。  しかし、である。  ここで少し考え方を改めた。『聖女の毒杯』だけは、ガッカリの仕方が他の作品とは違うようだ、と。評価不能、という切り口ではなく、過剰な期待を押しつけようとしたがゆえである、ということなのだ。ならば、作品そのものに対してはある程度評価している、ということになってしまうではないか。  それなら「該当作なし」にするよりは、私が評価した、ということについて表明しておくべきかもしれない。なんの足しにもならないだろうが、エールはエールだ。きっとそんなことはなかろうが、この賞の性質上、投票数ゼロというケースが生じうる(実際、評論部門で今年そういう作品があった)。その場合、私が「投票しなかった」という事実が必要以上に重くなってしまう。かつて候補になった時に思ったのだ。ここで票が少ないという状態は、けっこうこたえるぞ、と。  というわけで『聖女の毒杯』に投票することにしたのだった。実際の投票には「作者に期待」的なコメントをつけ加えたが、その部分はぎりぎりまで「該当作なし」のつもりで書いたコメントに付け足した字数オーバー部分。実際にはここに書いたような理由であった。

 ここからは蛇足である。  今回の投票に際し、以下のようなコメントを書いた。 「全体的に、推理が連立方程式的であるように感じる。条件が列挙されてすべてを満たす解を正しいとする方法論。私はこれが苦手らしい。求めるのは立式の爽快感なのだ。」と。  これを意味不明と思う人もいるだろうから、少し付け加えておく。  推理が連立方程式的である、というのはいくつかの条件が並列されて、それらの条件をすべて満たす解を正しい、とするような仕組みのことだ。簡単に言うと、パズル雑誌に載っている「推理パズル」と呼ばれるような、容疑者と条件をマトリクスに置いて○×をつけてゆくような方法で解くタイプのことだ。  こういうの、とても堅実な感じがする。けれど、個人的には好きじゃない。複数の条件を提示し、そのすべてを満たす、というのは、より正しい答えを得るには妥当な方法に思えるかもしれないが、私はそうではない、と思う。とういうのは、さまざまな条件というのは本来、異なるウェイトが係数としてかけ算されるべき性質のものだと思えるし、それぞれの条件の信頼度が別途考慮されるべきだろうと思うし、時には条件を無視することこそが妥当であるようなケースがあると思うからだ。  なのにひとつひとつの条件をつぶしてゆくような推理が展開すると、なんだかうんざりしてしまうのである。  連立方程式であることそのものまで否定する気はないが、それなら、すべての式を満足させる解がない、というところからツイストをきかせて意外な、隠れていた式が導き出されるとか、式そのものをいかに探し出すのか、という部分に驚きが潜ませてあるとか、そういう作を読みたいと思うのだ。  これがそんなに簡単な要求ではないことくらい承知である。自分で達成できない目標みたいなものなのだ。  けれど、だからこそ、誰かがそれをやってみせてくれないだろうか、と期待してしまう。少なくない本格ミステリ作家がいて、一年あれこれ頑張っているのだから、たまには出会えてもいいのになあ、と期待してしまうのだ。

 だから、そんなものを誰も求めていないのなら、私の期待そのものが間違っていることになる。  本格ミステリ作家クラブをやめた方がいいのではないか、と思ってしまうのである。

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