オンデマンド出版のこと
- Hajime Saito
- 2016年1月21日
- 読了時間: 6分
オンデマンド出版というのは、本のデータだけを準備しておき、注文を受けてから印刷、製本した書籍を販売する仕組みのことである。 従来より、出版という仕組みには無駄が多かった。読まれるかどうか分からない本を大量に製造して書店に並べてもらわなければならない。だから、書店で売れなかったものは原則として返品可能だ(売れないものを仕入れて書店が倒産しては困る)。ところで出版社に戻った書籍は税制上「資産」として扱われて税金がかかるので一定期間を売れずに過ごした本は廃棄、多くは断裁といって切り刻まれて捨てられてきた。 ちょっと考えただけで、大量の木材資源をゴミにしてしまう困った仕組みであることが分かるだろう。しかし、書籍は文化であり、それを読者に届けるということはとても重要なことで、届けるために大量生産するのはいたしかたないことである、ということにされてきたのだ。デタラメをまかりとおす理屈である。 デタラメを通してはみても、本質的に問題がなくなるわけではない。電子書籍などいう考え方がいかにも有効そうに思える理由がここにある。 一方、紙の本というハードウェアは、目下のところ「読む」ことに限っては圧倒的にすぐれていると言わざるを得ない。現在はスマホが普及し、その優位さが多少は薄れてきてはいるものの、「読む」というだけならまだまだ紙の本が上だろう。 そこで、ごく安価に本をオーダーメイドできるようにならないか、という思想が出てくる。必要な本だけを、場合によっては必要な部分だけを「紙の本として読む」ための仕組みだ。 ほんの十年ほど前までは夢のような話だった。オーダーメイドにしたら、なんでも数千円はかかるという状況だった。だが、ここ一、二年で徐々に状況は変わってきた。 ネットのサービスとしては「製本直送」がその嚆矢ということになるだろう。送料は別としても、そこそこ立派な本が、書店で購入できるレベルの料金で作ってもらえるようになったのだ。 これで、少なくともあまり無駄を出さずに、読みたい本を確実に手にいれられるようになる、準備ができた、と言いたい。ちょっと無理があるけれど。
少なくとも、作者の立場としては、「読んでもらう」ためのプラットフォームができた、と考えている。 読みたいけれど読めない、という話を何度もネットで目にしてきた。少なくとも、その点だけは解消できるだろうと思う。もちろん、電子書籍でやったっていい。だが、電子書籍にはまだ問題も少なくないから、これだけでいい、というわけにはゆかない。 もちろん、本という形にするための作業はバカにならない。が、やるしかないなら徐々にやっつけてゆくしかないわけだ。まあ、そのぶん新しい原稿が書けなくなってしまうのは問題かもしれない。が、いくら書いても読まれないままにしておくのも寂しい。どこかで折り合いをつけるしかないのである。
なぜ、オンデマンドなのか。簡単に書店などで買えるふつうの商業出版を目指せばいいではないか、と思われる向きもあるだろう。 だが、私にとって商業出版には看過できない問題がある。そこを乗り越える時間が惜しい。紆余曲折あったが、書きたいことや書くべきことがあるのなら、正直、読者なんて数人もいれば十分だと思うようになった。それは、商業出版の目指す方向ではない。 商業出版の目指す方向というのは、極論すれば、なにが書いてあろうが関係なく売れればいいのだ。子供の作文を並べたら百万部売れた、みたいなことが起こっても、それは好ましきことであって悲しむべきことではない。だが、だとしたら、より良いものを、納得のゆくものを、じっくり時間をかけて完成させたい、という作者の思いは完全にすれ違ってしまうだろう。 良いものを作れば売れます、売ってみせます、と誰かさんが言うかもしれない。けれどそんなものは、売る者が自らを正当化するためのおためごかしだ。売ることについてプライドを持つための言い訳に過ぎない。そもそも、「良い」ということを自分の価値判断で行おうとしている傲慢な話なのである。 はっきり言うが、万人に「良い」といえるような価値基準などない。いや、少しくらいはあるのかもしれないが、その程度の「良い」なんて、「当然」とほぼ同じだ。たとえば、良い文章などと言うけれど、万人にとって「良い」といえる基準なんて、「文意が読み取れる」レベルでしかない。なんとなれば、「言葉」によって喚起されるイメージは個人差があまりに大きいからだ。 なればこそ、メディアミックスみたいなことが生きてくる、ということもいえるかもしれない。強引にイメージを統一してゆく方法論だ。 いや、それは脱線。 言いたいのはつまり、「良い」は千差万別であるが、そこには似た「良い」や近しい「良い」がありうる、ということなのだ。それは、すごく多いとは限らない。だが、いるに違いない、とも思う。 その近しい「良い」を探し出すことこそが、もしかしたら創作活動なのではないか。読書ということではないのだろうか。だから、書く。書いて、多くの人が読めるような状況を作るのだ。 創作活動は、コミュニケーションなのである。 だからオンデマンド出版という方法は、コミュニケーションツールのひとつ、なのだ。
さて、ただのコミュニケーションならば、そこに代金が発生するのはおかしいのではないか、という疑問がわく。作者が作品を投げかけ読者が受け取る。ここには対等の関係しかない。一方が代金を払う、というのは本質を怪しくしてしまう。代金が発生するなら、そのぶんの見返りが必要になる。サービスが必要になる。そうあるべきだと思う。 単純に「面白く書く」ということが見返りであると言ってもいいのかもしれない。それこそがサービスであるのだと。 まあ、それを完全否定することはできないのだが、私はもうちょっと深く捉えたい。 そもそも、金銭とはなんだろう、ということだ。 私は、「代行」に対する「感謝」を記号化したものが金銭であると考えている。現在ではそうでない場面も少なくないが(ゲームのチップのような)、本質的には「代行」と「感謝」であり、それを蓄積したり流通させたりできるようにしたものが金銭であると思うのだ。 ならば作家は、なにを代行するのだろう。 それは「考えること」であると思う。読者に成り代わり考えたことを結実させたものが作品であるのだと。 ゆえに私にとっての創作活動は、すなわち「読者の考えていないことを考える」ことによって正当化される。面白い話でもいい。有益な話でもいい。時にはくだらないということでさえ許容されるだろう。 ともかく、そうであろうとした文章を送り出してゆこうというわけだ。そのような姿勢によって、本を作ってゆこうというのである。
もちろん読者は、そのような作者の思いにつきあう必要はない。 みずからつきあいたい、と思うかただけ、ご購入いただければ、と思う。
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