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正しいとか優れているとか

 生きてゆく、というのは選択をし続けることである、と言ってもいいだろう。

 とか言うと、「今日の晩ご飯どうしようかな」的な考えが起こってくるわけだが、まあ、それも選択であるのは間違いないのだが、ここで言ってるのはもっと小さい、原理的なところのお話である。

  つまり大昔、まだ発生したばかりの太古の単細胞生物を考えて、こいつが「生きて」ゆけるかどうか、というところに、すでにして選択の意味というのが存在していた、というようなことを言いたいわけだ。生命活動というのは、循環する化学変化の周期を繰り返しているようなもので、ただし化学変化というのはほうっておけば直線的に進んでやがて終わってしまう。そのためなんらかの形でエネルギーを供給して周期を元にもどしてやる必要がある。そのエネルギーが手に入るかどうかが生命活動が維持されるかどうかなので、そこに選択の価値が生じるわけだ。 あるいは、なんらかの外部からの干渉によって生命活動を停止せざるをえない状況というのがある。そこに陥るかどうか、というところにも選択の意味があるわけだ。

 さて、選択の価値、あるいは選択の意味、という表現をした。これは評価基準ということになる。状況を評価して、良いとか悪いとか、正しかった間違っていたと評価する。その価値、その意味である。 だが、本質的な話で言うならば、そもそも生命活動が維持されるというのが「良い」ことである、という保証はされない。どのみち、宇宙の中のちっぽけ過ぎる物理変化の話ではある。生命がその活動を維持できるかどうか、生きていきやすいかどうか、という選択は行える状況があるけれど、ごく初期の段階において、その選択そのものには意味だの価値だのはなかった、と考えていいのだ。 しかしここに選択が発生し、生命活動に関するなんらかの「生と死」にまつわる答えが出る、ということは分かるだろう。 そうして、その選択によって得られた答え、結果的状況において、その選択そのものの評価がなされる(評価が発生する)であろうことも容易に想像できるはずだ。

 そうしておそらく、このレベルの「評価」こそが、なにかを評価するためのもっとも根源的な、基礎的な評価なのではなかろうか。すなわち「生きていける方が良い」であり、「死ぬのは悪い」と決められるようになったのだ。これ以上に根源的な評価というのが、ありうるとはとうてい思えない。

 これによって「良い」「悪い」が初めて発生した、と考えられるのである。 ただし、そうと気づいてもなにかが分かるというものでもない。だいたいこのレベルの選択などというものは、周辺状況に左右されすぎるし、しかも単細胞くんは、その周辺状況についてほとんど事前にデータにすることができない。ごくごく場当たり的な「良い」「悪い」だ。

 であるからこそ、この評価には結果(生きたか死んだかの)こそが重要である。だが、選択の時点では結果は保証されていないわけだ。評価について考えるなら過去にさかのぼって良いだの悪いだの言わねばならなくなる。だが、単細胞くんにはそんなことを可能にする能力がない。だから言ってみてもどうしようもないのである。

 ただ、細胞には何らかのセンサーがある、と考えていいだろう。小さな細胞でもそいつには自己と環境とが分かれており、そこには境界が存在する。そうしてその境界は、必ずしも均質な環境と接しているわけではない。すると、化学変化こそを基礎とする単細胞くんにも、どのような化学変化が可能であるか、という点で違いが生じていることになり、その状況が挙動に反映される。右と左で違いがあるなら、どっちに行くかについては、おそらくその細胞の資質(どんな物質、イオンがどのあたりに配置されているかというようなレベル)によって決定される。その結果として生きられたり死んだりすることになりうる。こうして、細胞に「生きやすいタイプ」と「死にやすいタイプ」という分類が生じることになるだろう。

 ただ、たぶん極端に「死にやすいタイプ」は死んでしまうだろう。から、ある程度は生きやすいタイプが残ってゆくはずだ。ここに「繁殖」という要素がくっついて、世代交代という考え方が起こり、より生きやすいやつが生きるようになる、というのが自然淘汰だの進化だのという話になるわけだ。

 が、最初に言ったように、「生きやすい」かどうかは結果的に決まるだけの話。ここにいきなり「良い」だとか「優れた」であるとかを持ち込もうとするのは、強引に過ぎる、と考えるべきである。たまたま生き延びたやつが持った資質を「良い」と便宜的に考えることは可能だが、あくまでも便宜的なものである、と考える必要がある。 ただし、この便宜的な評価は、これ以上好ましい評価がない、と断定できるほどに根源的な、基礎的なものである、とも言えるわけだ。(なにしろ、この評価が低かったものは死んでしまっているため、便宜的であっても、あたかも絶対的であるかのように機能するからである)

 つまり、私がいいたいのは、世の中で「良い」とか「悪い」とかいう評価が各種なされてはいるが、それはつまるところこの根源的な評価方法によって構築されたものに過ぎず、すなわち、どのみち便宜的なものに過ぎない、ということなのである。

 絶対的な評価など、存在しない。存在しえないのである。

 だが、世の中はそうなっていない。だれもかれもが、あたかも絶対的な正しさや優れた方法があるかのごときスタンスに立って、あれやこれやを評価している。ここに、なんらかの断絶が生じているに違いない。

 言い換えれば、便宜的な評価から、(それを元にして)疑似的な絶対評価を構築する方法があるに違いない。 おそらく、鍵になるのは「過去を参照」する方法ということになるだろう。

 過去はいつだって、たかだか経験則を導くのみであって絶対的な評価を構成することにはならない。たしかに科学的とかなんとか、法則性を導き出すことだってあるにはあるが、科学というのはなによりこの、法則性が便宜的であることを認める方法なのである。それにそもそも、法則が完璧に導けたと仮定してみても、その完璧な適用などはできないのだ。 なにしろ未来は、確定的に予測することはできない代物なのだから。

 簡単に説明しておくなら、未来を完全に正確に予想しようとするには、(不確定性原理を持ち出すまでもなく)正確な現状を把握しなければならないのだが、十分なだけ正確に現状を測定することができないからだ。人間の世界における「測定」というのは、状況に対して影響を与え、そのリアクションによってなにごとかを知る方法のことなのだが、この「(観測者が)与える影響」を正確に測定できない(当然)のだからどうしようもない。どうしたってアバウトにやってゆくしかないのだ。

 というわけで、未来を予測するために便宜的ではあるが過去の経験を参照してやる、というのがスタンダードになってゆくわけである。つまり「生きる(ないし生きてきた)」という「良いとされた方向性」を選んでゆくわけだ。この戦略はおおむねうまくいったらしく、この地球上にはたくさんの生命(現象)が持続的に観測されるようになっているのである。

  さてしかし、これは単細胞生物の選択、というレベルの話なのであった。 われわれ高等な(笑)生物であるところの人類さまは、もっともっと高尚な選択をしてしかるべきではないか。

 だが、それはどういった選択だろう。

 考え方としては、ひとまずふたつあるだろう。ひとつは、「環境」の改変である。もうひとつは、「死」を自ら受け入れる、というものである。 この考え方をするために、まずは単細胞から多細胞への変化を考慮しておくべきだろう。

 それは「個」の捉え方の変化でもある。

 いや、そもそも「個」ってなんじゃい、ってこと。いや「自己」ってなんじゃい、ということでもある。

 単純に単細胞生物であれば、他の要素は考えなくていい。繁殖しようがなんだろうが、「自己」は細胞一個で完結している。分裂繁殖して同一の「自己」が出来てしまったとしても、それはすでに「自己」ではないはずだ(どっちが「自」でどっちが「他」なのか、というややこしい問題はあるけれど)。

 だが、多細胞生物という階段を登ったあたりから状況が少々怪しくなる。 つまり、当初は「他」であった存在が、協調的に生きてゆくようになる。となると「良い」の基準が変わるのである。つまり、全体として生き続けることが「良い」ということに変わるのだ。多数の細胞たちによってより生き延びやすい方向性を見いだす、ということが起こり、さらには機能を分担してゆき個々の細胞だけでは生きられなくなる。つまり全体として生きることしかできなくなる。それがために「自己」は「みんな」に拡張されることになるのである。

 この状況が、すなわち「環境」の改変である。多くの細胞が協調的に互いに影響しあう、というのがひとつの大きな変革であり、また、そうすることによってそれ以外の周辺状況を変えてゆく方法も見いだせることになる。

 また、全体として生き延びるために「部分である自己」の死を許容する、という戦略が登場することになるのである。ことここにいたって、「死」あるいは「生」のフレームが別の次元に拡張されたことになるのだ。

 つまり、細胞レベルにおいては自ら「死」を受け入れて、全体として「生きる」ことが「良い」ことであるかのように変わる。 言い換えると、当初は個々の細胞の生死が「良い」だの「優れた」だのの基準だったものが、「個々の細胞の生死はこの際無視して、全体として生きる方向性」に「良い」「優れた」がくっつくようになった、ということ。これ、ある意味価値観の逆転で、実体としてはずいぶん違った状況なのだが、そもそもの「評価」主体というのが多細胞生物のレベルにあるために同等に扱われることになる。

 つまり、個々の細胞にとっての「良い」「優れた」は依然として存在しているにも関わらず、それらの評価を総体として捉えた新たな評価を、「良い」「優れた」として取り扱うことになる、ということだ。

  ちょっとややっこしいところなので比喩で。 つまり、たとえば、面白いマンガというのはそれぞれ個人が読んで決めることだろう。それが「良い」の基準だ。けれど、社会にとって「良い」というのは違うのだ。たとえば「よく売れる」というのが社会にとっての「良い」なのである。そういう作品が「社会を生かす」からだ。しかしながら誰にとっても面白くないなら「売れない」ので、あたかも「面白い」と「よく売れる」が同じことのように扱われるようになる。 違うことが同じように扱われるようになるのだ。

  そんなふうに、全体としての価値が個々の価値を飲み込むことはよくあるわけだが、価値とはすなわち生死のことだったから、言い換えれば全体を生かすために個々に死んでもらう、というような状況がある、という程度のことだ。実際、多細胞生物ではありがちな話である。

 そういう仕組みが存在することは、ちょっとした生物の本を読めば書いてある。「アポトーシス」というのがそれで、発生過程で一時的に必要だった機能を司る細胞だの、いやそもそも成長などで入れ替わる細胞だのが、このアポトーシス、すなわち自死するのだ。使われなくなった細胞や、それでは能力不足の細胞が、生命活動という化学変化サイクルのくびきから離脱し、別の細胞の材料になるべく分解させられるのである。 全体としての価値観によって部分が殺される、などと表現すればおぞましい現象のようだが、多細胞生物が「生きる」には、このような状況を受け入れなければならないのである。「新陳代謝」などと言って、実は紛れもない「死」をごまかしてゆくことにするのだ。

  さて、このような状況において「良い」だの「優れた」だのを考えてやる。 そうすることで、我々が日々、様々ななにかしらに対して「良い」だの「悪い」だの言ってる状況が分析できるはずだ。

 それを評価する基礎データのひとつは、「自己」を構成する細胞の生死に直接関わっている。「痛い」だの「苦しい」だのはたいてい「悪い」のだ。これは、リアルタイムに、かつ直接的に発生する評価である。

そこに、もうひとつ加わる。多細胞生物は多くの場合、過去を記録するシステムを持っている。そうして、その記録を利用することで「良し悪し」を決めているのだ。 もうひとつ突っ込んでやると、「過去」の「経験」を参照して利用する、というシステムも当然、細胞たちによって成し遂げられる。ということは、そのような細胞たちの生死もまた、評価に関わってくる。すなわち、過去を参照して「良い」という評価をするということは、そこまで変遷してきた「(総体としての)自己」の肯定になる。 具体的に表現してみよう。

 たとえば、あれこれ勉強して蓄えた「教養」とやらがあるとしよう。この「教養」というのは、データの集合のことだが、同時にそれは、「教養」を構成するための細胞やそのネットワークのことでもある。この段階で、その「教養」とやらにはなんらの価値はない。絶対的な意味での価値は存在しないのだ。ただし、その「教養」がここまで生き延びてきた、という価値ならある。さて、ここでその「教養」によって新たなデータを評価する場面が想定される。このデータは「良い」だろうか? それを「良い」と評価するのは、「教養」という「自己」だ。すなわち、「教養」を肯定しているかどうか、という評価がなされることになる。お勉強してきたみなさんには、先生の言ってることこそが正しい、というわけだ。もちろん、お勉強が嫌いなみなさんには、先生は嘘ばかり言ってるのだ。 同様に、身体を鍛えている人間なら、筋肉や身体の柔軟性を適度に使って、それを支える各種細胞がアポトーシスしないようにする行為が「良い」なのだ。

  さらには、太った身体を持っているなら、その体脂肪を維持できるような行為、すなわち食うことが「良い」で、それにふさわしい高カロリーの食物こそが「おいしい(良い)」のだ。 まあ、人間くらい賢くなると(苦笑)社会的コンセンサス、みたいな形で、「評価」そのものを分離独立させてしまうことが可能だから、そういう「社会的評価}と「(身体的)自己」の持つ「評価」との相克が起こったりもするけれど、個々の人間にとっての本質的評価は、(さまざまな機能を担う細胞の個々の存在意義の総体としての)自己を(どれくらい)肯定するか否定するか、ということなのである。

 (ただし、ここで重要なポイントをひとつ提起しておくべきだろう。すなわち、「自己」は静的な存在ではなく時間によって変動する動的な存在であるということ。たとえば、成長。あるいは社会の評価を受け入れて自己が変わるというプロセスについても考慮しなければならない)(そうそう、もうひとつ。「評価」は過去の参照を主たる方法として用いるわけだが、参照されるべき「過去」はどのみち自己に保存されたものに過ぎず、決して正確ではないものになっていることも考慮せねばならない)

 さてともかくだ、どのような評価であっても、自己という基準の上に乗った、それぞれに勝手なものに過ぎない、ということ。これが基本になる。

 絶対的に良い、などというものはなく、その場その場の評価者によって評価は変わってしまうものなのである(なにしろ、評価者自身がどれくらい肯定されるか、というのが評価の実体なのだから、評者が異なれば当然評価も異なるのだ)。

 ならば、愛も正義も神も、法律も道徳も友情も努力も、勝利ですらも、便宜的なものなのだ。

 だが、だからといってそれらを安易に否定する必要などはない。なにしろ評価というのは、あるいは個人個人の価値観というのは、その人の全細胞を代表するかのように構築された記号的概念なのだ。ならば正義であれなんであれ、それを信じてできあがった身体であり、どのみち簡単に否定できるはずがないだろう。

 だが、ひとつ大切なのは、そこで構築された価値観は、たかだか一個人を代表しているに過ぎない、という視点である。 自分を代表している、という矜持。だが、それは決して普遍的でも絶対的でもないという冷めた視点。このバランスによって、評価するという行為は、他者を巻き込んでゆく資格を得るのである。

 さて、繰り返しておこう。 ありとあらゆる「評価」は、その評価をなす個人にとって、その個人をどれくらい肯定するものであるかを測定(ないし案分)したものである。と。

 だが、もちろん、実のところ話はここまで単純ではない。もう少し踏み込む必要がある。

 たとえば、評価を定めるには、ひとつのパラメーターだけでは不足だろう。結婚相手に相応しい男であるかどうかを評価するのに、身長だけで決めるわけにはいかない、ということだ。収入、学歴、性格、時には体臭とか声の質なんかが重要になることだってある。 あるいは、実際の評価は、常になんらかの「ものさし」を利用することで数値化、顕在化させたものだから、「ものさし」の使い方ひとつで評価は変わってしまう、という問題もある。さまざまな「ものさし」の優先順位によって、評価などはたやすく変わってしまうのだ。

 ただ、ここで使われる「ものさし」そのものについては、やはり個人をどれくらい肯定しているかの指標であると考えるべきだろう。さらには、その優先順位についても、おそらくは評者の価値観、すなわち評者の肯定度合いに関わっているはずだ、とも言えるのである。

 さあ、かくして「評価」という方法論がおおよそ解体されたことになる。 このような前提で、「他者」を考慮しようとすると大変なことになる。なにしろ「他者」はあなたとはまるで異なる評価をするかもしれず、しかもその評価を事前に考慮することができないからだ。 コミュ障という言葉がある。他者とうまくコミュニケーションできない、と感じる人の自己評価について表現された言葉だ(と私は思う)。

 だが、他者とコミュニケーションできない、という感覚は、このような前提においては当然発生するものであり、実のところ「障害」ではない。状況に対するまっとうな判定であると言って差し支えあるまい。まともにコミュニケーション「できている」という判断が、たいていのケースで勘違いなのだ。

 だが、おそらく人間は、そのような「勘違い」をスキルとして身につけながら成長してゆく。「みんなにとってなにが正しいか」を「覚え」て、自己の評価方法にオプションとして追加してゆくのである。前提になる「みんなにとってなにが正しいか」は、実は虚像に過ぎないが、みんなが共有すれば、そうしてそのような虚像をみんなで実装してゆくならば、あたかも「みんなにとって正しい」であるかのように機能することになる。

 いうなれば「なれ合い」を共有し、そうすることで個々の事象をいちいち評価したり判断したりせねばならない(個人の能力ではオーバースペックになるような)事態を回避しているのだ。

 ひとたびそのような方法を身につけてしまえば、それこそが「正しい」になる。その「正しい」によって各人は自らを肯定してゆく。その「正しい」に疑義を生じさせるような事態を否定しようとする。「正しい」に帰属する他者を増やそうとする。 共有する者が増えることで、「正しい」の「正しさ」が強固になってゆく(感覚がある)はずだから。 まあ、どこまで行っても絶対的評価にはならないし、どれほど間違っていても共有者は増えてしまうものでもあるという事例が、歴史上いくつもある、らしい。ので、気をつける必要はあるだろうなあ。 なんだか急に弱気になっているわけだが。

 ま、ともかく、私はこういう感覚で生きている。 だからなんにつけ「自分は絶対正しい」というスタンスで発言している人を目にすると、「けっ」と思う。

マスコミだの政治家だの評論家だのを嫌う由縁である。

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