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充実野菜よありがとう

 諸般の事情というのがある。

 令和二年、二十四時間テレビが無事に終わった、その晩のことである。日付変わって深夜一時頃のこと。

 いろんな作業の流れから、いつもより少しだけ早く嫁さんを就寝させたというのに、昼間からさんざんゴロゴロしていたくせに、わたしはリビングの板の間に倒れて、明日が来るのを拒んで入浴せずにウトウトしていたのだった。

 だが、不意にそいつはやって来た。

 ガサガサっと、乾いた音である。やけに近く。ひどく近くから聞こえるその音は、人を不安にする。一気に意識が明瞭になり、おそらくアドレナリンがびんびん出る。

 私が倒れていたのは、テラスに面した大きなサッシの網戸の内側。音が、外から聞こえてきた可能性が、ないではない。近頃では、おかしな動物がいるという話も聞くし、先日は妙な鳴き声らしきも耳にしている。

 だが、どうもそれではない。

 耳鳴り、ということもあるか。実は耳鳴りはしょっちゅうで、何種類かのパターンであれこれ聞いている。その中のどれかか。いや、耳鳴りには脈拍に連動するものや、唐突に始まって安定して聞こえるものなどがあるが、いずれも体調と関わっているらしい感触があるものだ。

 この音は、私個人のリズムとは無関係に発生し続けている。勝手に聞こえ、勝手に止まるのだ。

 そこで頭を振る。激しく振る。振っていると音が止まる。が、頭を止めるとすぐに音は復活する。

 ガサゴソッ

 類似の音に心当たりがあった。髪の毛やら耳毛やらが、耳孔の奥に入り込んでしまい、鼓膜を刺激している時の音だ。鼓膜に直接刺激がなされる音だ。

 ただし、その場合の音の発生とはタイミングが違う。止まっていても響くのだ。

 となれば、想像がつくのはまずあれだ。

 虫である。

 小さな虫が、なにをどう思ったのか知らんが耳の穴に入り込みやがったのだ。羽根があるやつなら羽根で、ないならそのささやかな足でもって鼓膜を叩いているやらひっかいているやらしているのだ。

 小さな小さな刺激だが、鼓膜に直接となれば相応に激しく聞こえてしまうのだ。

 うう、きつい。

 では、どうすればいいのか。

 放置、という選択肢も、もちろんある。虫だってそんなところにいるのは本意ではあるまい。出て行く先を見つけて出て行ってくれるかもしれないではないか、と。

 だが、そうはゆかぬ事情がある。ひとつには、放置して眠る、なんてことができそうにないくらい音が不快である、ということ。このタイミングで眠れないのはまずい。翌朝には遅くても六時に動き出さねばならない。

 そうしてそれ以上に、思いだしてしまうのだ。すなわち耳の穴だの虫だのというやつは、過去に私が書いた気色悪いシーンに登場するパーツなのだよ。こんなもん、いくらでもおぞましい情景を想像できてしまうのだよ。

 間違って入ったならともかく、もしや虫は、産卵の場所を探していたのではあるまいか。そうして、適度にしめっていて暗い場所にたどりついた。耳かきばっかりしている私の耳の穴はほどほどに炎症など起こしており、もしかして産卵に最適なのではあるまいか。

 諸般の事情というのがある。

 この日の昼間、収獲したジャガイモが腐りはじめて、腐ったやつらを排除する作業なども行ったのである。単に腐ったやつもある。が、その一部には小バエだかなんだかが産卵して、蛆などわいていたりしたのである。その情景を見たばかりの晩であった。

 放置などできるものではない。

 だが待て、焦るな。

 虫の可能性は高い。だが、そうでない可能性がゼロになったわけではない。

 おぞましい想像を肯定する前に、そうではない可能性を確認しておくべきではないか。

 そこで、まず耳毛処理をする。みっともない話だが、私の耳毛は長く濃く、放置されている。こいつらを、まずは容疑から外す必要がある。

 音の状況からして、切れた毛が中に入っただけ、という状況は考えにくい。生えているからこそ、微妙な動きが毛先に伝わって、鼓膜をツンツンする、という状況が起こりうるのだ。

 はさみはさみ、と探す。

 嫁さんは、さまざまな文具をたくさん所持し、それらをあれやこれやと使う人だ。はさみくらいなら私にもアクセスできるところに常備している。あった。よし。

 で、切る。じょりん。

 予想以上に大量の耳毛がカットされる。

 音はどうだ?

 残念ながら変化なし。

 耳毛というやつは、そんなに奥の方には生えてないものだ。長ければ鼓膜くらいまで届くかもしれないが、耳の穴入り口付近を処理してしまえば、異音の原因にはなりえない、はず。

 髪の毛はどうだ。耳の上にある天然パーマの毛を掻き上げる。

 変化なし。

 仕方ない。こうなりゃ耳かきだ。

 物理的なアクセスで、虫を捕らえられるとは考えにくい。だが、穴の奥の方にアプローチするにはもっとも簡易な方法でもある。

 ごそごそ。がさごそ。

 なんも取れん。

 丸いポンポンみたいなやつを入れてみる。

 駄目だ。

 綿棒に、オロナイン軟膏をつけて突っ込む。これも駄目。

 光を使えばいい、という話もある。そこで部屋の照明に向けて耳を固定してみる。うーん、反応なしか。

 そう、こういう時はあれだ。耳垢を除去するために、粘着物を先端にくっつけたタイプの耳かき棒が存在する。かつて、短い毛が耳の穴に入ってしまった時に、見事にくっつけてくれたやつだ。嫁さんなら持ってる、はず。

 だがしかし、見つからない。あまりにたくさんいろんなものを持ってる人の机は、雑然とごちゃまんとしている。下手にひっくり返せば嫁さんが困る。といって、せっかく寝てるものを起こすには忍びない。

 諸般の事情、というやつなのである。

 ここに進退きわまれり。

 しかしここで私はとんでもないことを思いついてしまうのである。

 殺虫剤だ。

 殺虫剤で虫を取り出すことはできない。だが、殺してしまえば異音はかなり減ってくれるはず。

 そうだ、蚊除けスプレーがある。ワンプッシュ二十四時間ってやつだ。あいつが、実は殺虫スプレーとしても使えることを私は実験済みであった。

 ボトルを手にする。

 こいつを、耳穴に向けてワンプッシュ……。

 いかん。さすがにそれはまずい。毒性が、素肌レベルではないところにどう効力をおぼよすか分からないし、なにより量がコントロールできない。さらには、目的地に到達できるかどうかも分からない。

 とりあえず綿棒につけて、耳穴の壁面に塗布してやれば、いずれそいつに触れて死ぬんじゃあるまいか。

 やってみる。

 ガサゴソガサゴソ。死なんなあ。

 いかん、じっとしてなどいられない。なにか方法はないか。

 そうだ。ずいぶん昔になるが、耳の穴から垢を吸い込む機械を買ったことがあるぞ。使ったこともあるぞ。あれなら……。

 いやいや、どこにあるか分からんぞ。あっても電池交換はマストやぞ。どんだけ手間かかるか分からん。

 そうだ。口で吸えばいいんだ。たとえ口の中に虫が飛び込んでしまったとしても、そんなもんたかが知れてる。ペッて出したっていい。それには、なにかチューブみたいなものがあれば……。

 あるとは思うんだがなあ。なにかそういうものがあると思うんだがなあ。こういう時には見つからないものなのだよ。

 じゃ、ストローだ。なにをどうすればいいか分からんけれど、ストローで吸えばいいんだ。と、思ったが、さて、ストローはどこだ……。

 ない。あるはずだけど出てこない。

 なにかないか。

 そうだ。紙パックの飲み物にはストローがついてるぜ。冷蔵庫。

 あった。買って冷やしてるけどあまり呑んでない充実野菜!

 そこで天啓が閃く。

 このストローで、口でもって吸うのでは無理がある。多少の曲がりは可能だが、基本的に直線のストロー。耳の穴と口とをつなぐことができないのだ。だがしかし、もしかして……。

 私は充実野菜を飲み干す。

 そうだ。やっぱりそうだ。このタイプの紙パックのストローは、かなり密閉された状態で接合する。そうして、つぶした紙パックは、手を離せば元の形に戻ろうとしてストローから空気を吸い込む。

 一度紙パックを洗う。

 紙パックを少し潰して、ストローを耳に突っ込む。

 吸え! ぺこん

 三度トライ。まだ音が、する。

 いや、諦めるな。このストローは少し曲がるではないか。こいつで、もうちょっと奥までストローを突っ込んで……。

 そうだ、なるべく耳に密着させてやれば、吸い込まれる空気は勢いが増す。強い風になるはず……。

 吸え! ぺこん

 ………………。

 静寂? 深夜の。

 もしかしてもしかしたらと、私はストローを確認した。

 するとそこに……。ストローの内壁に……。

 ひっついている小さな亡骸。

 やったぞ。充実野菜よありがとう。ついに私は勝利したのだ。

 風呂入って歯を磨いて、洗濯の予約などルーティンワークをこまごまと作業して。

 ついに私は布団の上に横たわったのであった。

 かすかな興奮の余韻が、耳の奥にある。

 ああ、これは二十四時間テレビの興奮の余波、などではない。おそらく、二十四時間効果の持続する殺虫剤の影響だ。

 やばいかなあ。やばいかもしれんなあ。明日、もしかして起きられないかもなあ、などとと思いつつ意識をなくす私であった。

 それもこれも、諸般の事情というものである。

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