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リデビュー小説賞の凶悪さ

 講談社がリデビュー小説賞というのを始めたらしい。募集要項を見に行って、不快さに眉をひそめた。  なんだこれは、である。  要するに、一度は本を出したことがある人間のみを対象とした、新人賞なのだ。参加資格のみを制限してはいるが、中身は、つまり参加したことで得られるメリットは新人賞、いや賞金も出さないという新人賞未満の賞なのである。受賞したら本にして、プロモーションをしよう、というのだが、それのどこがメリットか。そんなもん、新人賞でいいだろう。それともなにか、講談社さんは、新人賞の受賞作品に対してはプロモーションなんてしない、とでもいうのか。そんなん、するに決まってるやろ。たくさん賞金を積んで手に入れた原稿を、「ぼくの趣味じゃないから売りたくない」とでも言う編集者がどこにいる。いや、むしろいて欲しい。けど、いるはずがない。編集者はサラリーマンであり、給料もらってるのだから。  なら、賞としてなんの意味もないだろう。と、そうはならない。ここがこの賞の凶悪さだ。  募集の要項で、こんなふうなことを言う。  運がなくて売れなかった傑作がある、と。それが売れなかったのは出版社や編集者の責任である、と。だからチャンスをください、と。  そんなこと言われたら、過去に挫折した経験を持つ元作家は、ちょっとそそられるに違いない。いつだって作家は、自作のことが好きだ。そうであるべきだ。にもかかわらず、彼らは皆、売れなかった、という経験をしてきている。そういう傷を負っている。そこへ「傑作なのに売れなかった」という状況を、編集者が認めてくれる。さらには、「売る努力をする」と言う。  はっきり言うなら、過去に傷を負った作家たちの多くは、「売ってもらえなかった」という経験をしている。だから、「売ろうと努力してもらえるなら違う結果があったはずだ」と思う。だいたいにおいて、「売れてる」という作品のほとんどが、自分のものより優れている、とは思えないのだ。だから……。  今度こそはと満を持して傑作を送りつけ、今度こそ売ってもらおう、という幻想を抱くのだ。  そう。幻想だ。  ふたつの意味で間違っている。  まず、元作家のほとんどが、もはや傑作なんてものを書くことはできない。少なくとも、いきなり「また書こう」なんて書いて、傑作が書けるはずがないのだ。作品というのは、実は時代性によって成立する場合が多い。ある時代の中の流れによって、作品は生み出される。数打ちゃ当たるという形で新人は現れる。新人は、その時代の中であるからこその作品を生む。それを「また書こう」なんてやって書いていては、ただ古くさい代物が生産されるだけだ。実際、新人賞の下選考をしている友人から、過去の出版履歴を付けた原稿がけっこうあること、しかしほとんどの場合は古くさい感性で無理した作品であると聞いている。  古い作家でも、今という読者と向き合っているなら、それなりの作品を書くのだろうが、ギャップがあれば、そもそもの感覚がずれてしまいかねないのである。  ここに、「普遍的な価値」を持つ作品もあるのではないか、という疑問が生じるかもしれない。まあ、そう、認めないでもない。だから、職業作家を辞めてしまっても、変わらず書き続けていけるような、しかも確固たる価値観に貫かれた作家がいたなら、という仮定を加えるならば、と付け加えたい。  だが、そういう作家がいたとして、「リデビュー」したいと思うのだろうか?  意固地になって書いている私みたいなやつもいるにはいるだろう(私は決して確固たる価値観なんて持ってないが)けれど、意固地になって書いていると、どんどん「読んで欲しくない」気持ちになってゆく。読んで欲しい、というのは基本的な欲求に根ざしていて、そうそうなくなるものではないのだが、そこには「理想化された読者」が介入してくる。不愉快な読者に読まれたくない、という気持ちが増してくる。すなわち、不特定読者に読まれることを前提とした出版というビジネスに及び腰になるのだ。  さて、もうひとつの間違いだ。もし、それでも応募してみよう、という作家がいたとして、たとえばずっと陽の目を見ることがなかった原稿のストックの中から、自信作を送り出したとしよう。  間違いなく傑作だ。と、作者は思っている。  だが、おそらく報われることがない。  なぜなら、その作品は既存の評価システムの中に置かれることになるからだ。それは、いうなれば「他の傑作と競わされる」のである。  ひとつを選ぶ、という枠組みの中で競わされるというのは、ひとつの価値観に収束される評価を受ける、ということを意味する。そうして、ひとつに収束される価値観というのは、おそらく、なにをどう言い繕ってみても、「売れるかどうか」に達する。  残念ながら、どれほどの傑作であっても、売れるとは限らない。その作品の価値を読みとることができる人は、だいたいにおいて少数であるはずだ。少人数にしか受け止めきれないなにものかを内包するからこその傑作なのだ。多数が「面白い」と思うような作品なら、ないとは言わない。が、極論すればそういう作品は、多数が書くことができる可能性を持つ作品だ。もしかしたら人工知能こそがうまくやるかもしれないタイプの、パラメーター調整タイプの作品になるはずだ、と私は思う。本物の傑作は、ある個人にしかたどり着けないような作品である、と私は思うのである。ならば、傑作はむしろ売れない。たいていの読者に受け止めきれないからだ。  まとめよう。  リデビュー賞に送ろうとする作家は、頑張っても傑作を書くことができない。もしくは、傑作を送っても、「売れるかどうか」の評価にさらされ、せいぜい一作かそこらが選ばれるのみで他は脱落させられる。傑作を「売ってくれる」のではなく、「売れる」ものを探す仕組みによって評価されてしまうのだから。  幻想を抱かされるのみで、おそらく再び傷つくことになる賞、それがリデビュー賞だ、ということになる。  なぜ、こんなことをするのだろう。  なぜ、たくさんの元作家のトラウマをいじくりまわそうとするのだろう。  それはきっと、新しいスターが欲しいからだ。  前のブログで述べたように、出版というシステムには問題がある。このシステムを、なんとか安定的に維持するためには、スターが必要なのだ。出せばベストセラーという作家を、上手に供給する方法が求められているのだ。つまり、それさえ売っていれば給料がもらえるような作家が欲しいのだ。そうして、その手段を彼らは、「プロモーション」であると思っている。メディアミックスの、クロスオーバーの、きらきらした展開こそが唯一の答えであるのだ、と。  けれど、作品を選ぶのは面倒だ。新人賞なんてものをやってみても、もはや賞そのものが多すぎて目立たないし、賞金はともかく下選考にもかなりの予算がかかる。そうでもしないと日本語になってない落書きみたいな文章をも編集者が読まねばならなくなる。しかも大量に。  そこで、少なくとも一度は本を出した相手なら、最低限のフィルターとして働くに違いない。話題性もあるし、なにかしらめっけもんがあるかもしれない。ひょっとしたら、他社の抱えてる作家さんが色気を出してくれるかもしれない。  よし、やってみよう。  どうせたいしたリスクはないのだ。失敗しても給料だけはもらえるのだ。  いや、たぶんそうは思ってないだろうが。だから余計に凶悪だと私は思うわけだが。  本当のところ、スターを見いだすという答えそのものが、小説の未来の可能性と別のものだろう、と私は思っている。  小説の未来、その可能性は、作者と読者の適正なマッチングにある、と私は思う。小説は、この賞の能書きに言うように、きわめて個人的なところから発生するものだ。ごくごく個人の感覚に即したものになるのだ。だからこそ、実はそれほど多くの人が喜ぶものばかり作るのではなく、限られた人数だが確実に深く届く、という作品群を成立させ、かつ、それをきちんと届ける方法が大切なのだ。  そのためには、より多くのタイプの作家を取りそろえて、それらの作家がなんとか暮らしてゆけるだけの収入を確保する道を探らねばならない。専業でなくてもいいが、道楽扱いされるような状況で書かれた作品はどうしてもターゲットがせばまるからだ。  そのように間口を広げておいて、多様な作品を読んでもらうようなフローを意識する。一冊読んだら次はこっち、というようなことだが、選択肢が多くて、進めば進むほど個人的な感覚に近づいてゆく。自分ならではの読書体験ができるようになる。そうあるべきなのだ。  が、実に面倒くさい。  個人でどうこうできるような話ではない。給料くらいじゃやってゆけないよ、と。  そう。  なら、軽々しく「小説の未来」とか言うんじゃねーよ。どーせアジテーションしちゃろう、くらいにしか考えてないんだから。  以上である。  いや、最後に、もし私がリデビュー賞なるものをすることになったらどうするか、を書いておく。  まず、リデビューしていただく作家の選定から始めるべきだ。誰に新作を書いて欲しいのか。  たくさん本を読んでいるような人に、セレクトしてもらう。なるべく多くの人に聞いて、ジャンルやタイプも考慮する。その上で、何人かの編集者が自分が責任をもって担当できる作家を選ぶ。一冊以上の本が出てる相手だ。今時ならどうとでもなろう。その時点で、作家にコンタクトする。ただし、それが賞レースであることは告げ、参加の意志を確認する。  参加作家が決まったら、それぞれの作家に新作を書いてもらう。ただし、この「新作」はストック原稿であってもかまわないものとする。  そうして、それぞれの新作はすべて発売する。リデビュー賞のノミネート作品として、担当編集者はそれぞれプロモーションするのだ。その上で、ふたつの賞を設ける。  ひとつは、一定期間内にもっとも売れた作品。  もうひとつは、一定期間後に読者にアンケートして、もっとも面白かった作品を選んでもらう賞だ。  状況が許すなら、プロモーションの手段は問わない。メディアミックスも芸能人のSNSもOKだ。なんなら、執筆中原稿の流出も。さらには、編集者名も公開しよう。編集者の競争になるように。

 どうだろう。  作家の多様性も話題性も、小説の可能性も、さまざまに応えてゆく賞に出来うると思うのだが。

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