出版のことを考えてみる
- Hajime Saito
- 2018年8月20日
- 読了時間: 14分
出版について考えてみよう。 出版というビジネスは、なんだかひどくいびつで、一般の社会常識では誤解されることが多いように思う。そのため、ツイッターなどでもおかしな話が飛び出して、状況に乗ってしまっている人をいらつかせるのだ。 そういうことを、少し整理してみようと思うのである。
まず、出版というものがきわめて特殊な理由を、ひとつあげなければならないだろう。 それは、出版というのは複製物を販売するビジネスである、ということだ。小説であれマンガであれ、売ってお金にするのはコピーである。オリジナル(と言いにくい状況もあるが)ではなくコピーを売る、ということが話をややこしくするのである。 つまり、コピーを売るということは、そのコピーという作業を行い、販売できる形にする仕事をする人がいて、そのコピーを作るための材料が必要とされる、ということなのだ。 オリジナルを作るという作業は、多少は簡易化、コストカットも可能かもしれないが、桁が違うほどの変化は想像しにくい。ところが、製品として「製造」する部分は、技術革新しやすい部分であり、おそらく現実的に大きな変革がなされてきている。 そのため、製品としての書籍のコストが変化してきているのだ。にもかかわらず、出版に関わる人たちは旧態依然のシステムをベースとした感覚でいるし、読者もそれに近い感覚か、あるいはまったくの無知でいる。 オリジナルを、コピーの元を作る人は、そこに相応のコストをかけている。だから、そのコストを回収できるようなビジネスモデルを求める。しかし全体的なシステムは、そこに支払うお金もカットする方向に動いている。しかも無自覚にカットしているのだ。個人が支払うコストは無視して、販売や製造という理由によって支払いが決まるのである。
ところで、出版の話になるとよく見る誤解がある。 それは、原稿料と印税についての混乱によって発生することが多い。 原稿料というのは、書いて完成した原稿そのものに対する報酬だ。 一方、印税というのは、出版された本の製造(時々販売)部数によって支払われる報酬だ。 つまり、原稿料はオリジナルを作った作家の仕事それ自体に対して応分に支払われる金銭である。雑誌などに掲載される原稿にたいして、一枚いくらとか一ページいくらとか決められる。まあ、ビジネスとして考えるなら妥当な報酬システムだろう。 一方、印税というのは基本的に、作家の作業とはほとんど無関係に決定される。ベースになるのは書籍の販売価格の十%。と、それはいいのだが、定価についても印刷する部数についても、原則的に作家はノータッチに近い(例外はあるだろうが)。そのため、大金がもたらされることもあれば、その反対ということもある。 で、現状その内訳がどうなっているかというと、おそらくだが、「原稿料」がもらえるのはレアケース。なぜなら、原稿を掲載する雑誌などの媒体が利益を出せる状況にないからだ。もちろん作品の掲載それ自体を目的とするのではなく、広告媒体などのケースもあるから断定は出来ない。しかし出版の報酬のほとんどが、印税によってまかなわれていると考えた方が分かりやすいだろうと思う。 つまりである、働いたことと報酬がほぼ無関係なのだ。 こんなシステムで、生活するための収入が計算できるだろうか? もちろん、十分に報酬が得られるケースもある。ベストセラーなんてことになって、百万部も売れるようなら、働いた総量に対して二桁も違う報酬が支払われることになる。また、そのような状況を経過して(もしくは固定ファンを確保して)一定以上の販売部数が見込まれるようになった作家なら、印税もある程度は見込めるようになる。 そうなれば食ってゆける。 だが、ほとんどはそうならない。 ギリギリで頑張って力尽きる。あるいは、そもそも本が出してもらえなくなる、のだ。消えてゆくのだ。 それでも、世の中には作家になりたい人というのがたくさんいて、作家になりさえすれば成功したものと考える人がいて、常に新人作家が供給されている。かくして、出版そのものは維持されている。 かろうじて維持されてきた、のだ。
一方でろくに働かなくても大金が支払われる、という状況がある。 もう一方には、働いた結果に対して(の)報酬が支払われない、という状況がある。 つまり、ギャンブルなのだ。 だが、そのことを知らぬふりして、出版というビジネスは続いてきた。 そのビジネスそのものを支えるために、各種技術革新はなされ、コストカットがされ、ついでに作家の報酬も下がり続ける。
およそ三十年前、私の本が初出版された頃、書き下ろしで長編を仕上げ、それが本になれば、新人でも百万円ほどの収入が期待できた。 面白いもので、これは単行本でもノベルスでも、おそらく文庫であっても似たような水準だったと思う。単価が安ければ部数が多く、部数が少なくても単価が高ければ埋め合わせられる。 印税というシステムの特徴として、多くの場合、印刷して本を作ってしまったら、そのぶんの報酬を支払うということがある。従って、本が出さえすればまとまったお金になったわけだ。 年に三冊、評価に値する作品を仕上げ、形になれば生活ができた。それは、ただし楽ではない。一冊ごとに没になるリスクがあり、すべてをふいにする可能性に追い立てられながら、必死に作品を仕上げてゆかなければならなかったのだから。実際、私も少なからず没になった。 それが今、そんな見込みは立たなくなっている。 まず、初版部数が減った。 コピーを売るというビジネスの肝が、その製造コストにかかることは明らかである。たとえば一冊しか作らない本のコストは相当高かったはずだ。大量に作ることで、そこにかかるコストを分割し、そうすることで書籍の値段を下げてゆくのである。そのため、最初からたくさん作る方が本の価格を下げられる。 文庫というのは、紙や輸送コストを下げる小さい本、ということで安価に供給できるようにしたシステムである。それは、部数を多くすることも関わってくる。 一冊あたりの印税はもちろん減る。だが、部数を多くすることで作家が得る報酬はそれなりに増え、相殺される。古い、評価の定まった作品であれば、長く書店に置く意味もある。 そのように始まったシステムなのだ。 だが、本の一冊あたりの製造コストが、コンピュータの導入によって劇的にさがった。印刷製本の技術革新によって、少部数の製品も大部数の製品とあまり遜色なく作れるようになった。 つまり、たくさん作らなくてもそこそこ安い本を売ることが、技術的に可能になってきた、のだ。 本を作る出版社にしてみれば、本の内容などを考えて、適正な定価というのを割り出すだろう。あとは、なんらかの条件によって売れるであろう部数をはじき出し、作るのである。 たとえそんな部数じゃ作家が食ってゆけなかったとしても、そんなことは関係ない。そもそも、その時点では作家の作業は終了している。あとは、お金をもらえるかどうかの二択なので、普通はもらえる方を選ぶっきゃない、のだ。 次に二次利用が読めなく、不安定になった。かつては、判型を変えて本にして、同じ作品に対して再度の報酬が出ることがあった。文庫化というのが代表的な仕組みだ。アンソロジーに載ったり、全集が編まれたり、というのも同じこと。 これが、いつからか始まった「文庫書き下ろし」によってグズグズになってしまった。本というのは、小さい方がコストが小さいから安い。その状態から、大きな判型に変わることは、まずないのだ。つまり、文庫はほとんど場合に「最終形態」で、そうなったら以後報酬はほとんど発生しないのだ(一部人気作家を除き)。 そんなリスキーな状況であることを、おそらくたいていの読者、および作家予備軍たちは知らないのだろう。 本を作ってもらい、売ってもらって、読んでもらう。これだけで満足し、完結するケースもある。それでいいならかまわない。だが、専業になって生活してゆくことを見込むのには、成功確率の低いギャンブルを勝ち残らなければならないのだ。
それでも小説を、マンガを書かずにはいられない。業のようなものだ、と話す作家さんはいる。その気持ちは分からぬではない。私だって、売る気のない作品を書き続けている。 だが、業で書くようなら、無報酬でもかまわんでしょう、という考え方があることも覚えておくべきだ。実際、出版の現場にはそういうことを本気で言ってるとおぼしき編集者が存在しているようだ。「遊びには報酬はいらんでしょう」と。 このあたり、実は非常に微妙な問題をはらんでいる。 読者を楽しませるのだから、その報酬は得て当然だ、と言う人がある。 執筆に要した時間、資料代その他のコストを回収できるようにしたい、という意見も分かる。 けれど、それは決定的な話ではない。 そもそも出版は、コピーを売るビジネスであるのだから、オリジナルは当然必要なのだが、そのオリジナルであるところの作品、その作品そのものには、金銭的価値を見出せないシステムでもあるのだ。 極論するなら、出版して販売するところのオリジナルなど、なんでもいい。どうでもいいのである。なぜなら、購買者はいつだって、その本を読む前に支払いを済ませているから。 紙になにかしら印刷して束ねて綴じて、売ってみる。出版というのはそれだけの仕組みなのだ。そこになにがしかの意味があるかのように装う必要はある。それは販売のためには当然だ。が、売ってしまいさえすれば、たくさん売れてしまうなら、内容はどうでもいい。 もちろん、買った人が完全にがっかりしたら、もう売れなくなる。続けてゆけなくなる。が、それなりの形を整えてやれば、失望はある程度ごまかせる。そのために、作者が利用される。 そもそも、作者たちはみんな、面白い、意味のある、素晴らしい本を作ろうとしているはずだ。少なくとも、他人に伝えるだけの意義が、そこにはあるはずだ。 出版ビジネスとしては、それで十分なのである。 本を書く、という行為はどれもこれも、基本的には自己承認欲求によってなされる。まあ、人間が社会に関わる場面のほぼ全部が自己承認欲求でなされているのだから当然ではある。 執筆という行為は、それが分かりやすく表出しているに過ぎない。 だからこそ、業であるという話になる。 人は、自己承認欲求を叶える形に自己を形成する。作品を作ることが自己であるなら、作品を認めてもらうことが承認を得ることだ。古い作品を認めてもらうのでもいいが、基本は、今の自己を認めてもらいたい。ゆえに書き続けなければならない。
さて、ビジネスとしては、そのようにして作成された作品たちを、いかに売るかを考える。もちろん、どのような作品なら売れるのか、ということも検討する。 とはいえ出版は、作品そのものをちゃんと評価することはできない。売ろうとして売れる、ということはある。時流に即している、というような評価も不可能ではない。だが、基本はいつだって「売れたから売れた」なのである。 ただ、固定客というのが存在する。本を書くのも業だが、本を読むのも業だからだ。そこに向けて商品を作る、という戦略がある。いや、広告などのプロモーションを別にして、売れる「内容」を作ろうというなら、戦略はこのひとつしかないと思う。 固定客の嗜好を読み、そこに作品を送り込むのだ。 ただ出版全体として見ると、ほとんどの現場でそこまでちゃんと戦略を練ったりはしていない。あるのは、「売れた作家の本を出す。売れなかった作家の本は出さない」あるいは(表現は違うが実は同じことなのだが)「今売れてるのと似たような本を出す」だ。 これは固定客向きの戦略とは違う、と感じる人もあるだろう。けれど、本の購買層の中には間違いなく、「評判の本を読む(というか買って確認する)」という固定客がいるのである。このあたりは、健康本の売れ行き動向を研究すると、なにか分かる気がする。 ともあれ、出版というビジネスは、「売れた」という実績に対してのみ反応している、と言い切っていいくらいの状況にあると私は考えている。(当然ながら新人には実績がない。が、××賞などの外部的実績は存在している。また、新人にはマイナスの実績がない、というのが重要なファクターだ)
では、こういう出版状況において、作家としてはどうするだろう。どう感じるだろう。 やはりどうしたって、「売れる」ことに神経質にならざるを得ないだろう。少なくとも、それで生活している人、それで生活しようとしている人にとっては死活問題なのだ。 だが、ここで問題になるのは、「売れる」とはどういうことなのか、なのである。 それは、書店やネットで販売が確定し、「売れた」という情報が発生、集計されること、である。と、答えれば話は簡単だ。が、ここでは見えにくい話がある。それは「集計される」ということだ。 たとえば毎週百冊一年売れたら五千部ということになる。だが、そんなことは起こらない。また、たとえそういうことが起こったとしても、統計的には「売れてない状況がずっと続いた」扱いとなる。 まず、そういうことが起こらないという話をせねばなるまい。 それは、昨今の出版状況、書店状況と関わってくる。 単純に考えてみよう。日本中に書店はある。そこの本棚には、基本的に空きがない。売れたらすぐに次の新刊が並ぶ。新刊は次々に出ている。この状況のことである。 考えてみれば分かるだろう。売れなくても新刊は来るのだ。棚に空きがないのに次の本が来るのだ。来ないと困るのだ。ならばどうするか。返品するのである。返品された本は一時的に出版社の倉庫に在庫される。リクエストがあれば出荷はされる。が、倉庫だって空きはない。空きを作らねばならないので、古いものはどんどん廃棄される。断裁して再生紙の材料になるのだ。時には古本屋に流されたりもするが。 週に百冊というのは、たくさんある書店のほんの一部で、せいぜい一冊が売れた、という状況なのである。これは全体としては「売れてない」となる。さっさと返品せねばならなくなる書店が大多数だ。すると店頭からその本は消える。 売れるには、店頭にあるうちでなければならない。だから、五千冊売れる本なら、発売から一週間程度で大半が売れてしまわなければならない。 作家にとって、著書ってのは我が子同然とも言われる。だから新人のうちは、書店に足を運んで、まずは「ある」ことを確認する。入荷さえしてもらえない本があまりに多いので、入荷してもらっただけで少しはほっとするものだ。だが、一週間たってもまだある、となると心配でならない。返品されるにはもう少し余裕がある、かもしれない。だが、同じ出版社の同じシリーズで次の新刊が来たら、もう駄目だ。売れなかった、という烙印がくっついて返品され、一年もしたら廃棄されてしまう。 ところで、書籍には「再販制度」というのがある。売れなかった本を返品したら、それが売れる別の本屋に持って行ってまた売ってもらおう、というふうな状況を実現するための制度だ。書店は、多品種少量販売の極端化したような業種なので、入荷したけど売れない、という状態になると商売が成立しなくなる。これを助けるために、店によって異なる売れる本をなるべく回転させてゆこう、という理念もある。 しかし、新刊が多ければ少し古い本に関わっている余裕はなくなる。返品された本が改めてリクエストされる可能性は大きくはない。 つまり、「売れている」状況は、発売直後の、もっとも露出度の高い時期以外は、ほとんど発生しないのである。 (例外がないとは言わない。テレビだのタレントだのの紹介で神風が吹くことも時にはあるのだから) というわけで、新刊が出たばかりの作家は、「売れてほしい」と思うから、遠慮がちにプロモーションしてみたり、あるいは売れるはずだった機会の喪失に神経質になる。 たとえば「文庫を待ちます」や「図書館で読みました」や「古本で買いました」は、いずれも「売れなかった」という実績である。「忙しかったので後回し」だの「今日は手持ちがなくて」でさえ、次の機会が来るかどうか危ぶんでいる身にしてみれば「売れなかった」であり、ついでに言えば、集計が「たくさん売れた」という答えを出してくれる機会の喪失でもある、かもしれない。おそらく読者は、そんな事情を考慮する必要はないのだろう。が、作者にしてみれば複雑きわまりないのだ。 もう、出してもらえなくなるかもしれない、その瀬戸際だったりするのだから。
なんとも切ない話ではある。いたたまれない。 だって、作者がやるべきは、より優れた作品を書こうとすること、であろうと思うから。その評価が、たとえ作者の自己満足に過ぎないとしても、それこそがやるべきことである、と私には思えるので。 ならば、やはり問題は出版というビジネスのシステムにあるのではないか、とは言いたくなる。 実際、直すべき問題点は多いだろう、とも思う。 だが、きっと修正されたりはしないだろう。
たとえば、出版が決まったならば原稿料が支払われ、印税はその原稿料を上回る収益があった時から出す、というようなシステムで運営されるような出版社が登場したら、なにかが変わるかもしれない。 これなら、今よりはもう少し、安心して作品を書くことができるようになる、と思うだが。
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