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書籍流通のことなど

 電子書籍が徐々に一般的になっており、単に(なにかしらを)読みたいだけのニーズには応じられるようになりつつあるようだ。すでに膨大な量の書籍が電子化されている、ということである(ただし、なんでもかんでもではない。読み切れないほどたくさんある、というだけだ)。  さて、たぶん、ここに関連してビジネス展開を意図する人たちには、既存の出版ビジネスをそのまま踏襲しようとしている人が多いのではあるまいか。  そのことが、私には根本的に間違っているように思えるのだが、さりとて、自らこの状況を覆す根性もスキルも時間もお金もない。まして確実な方策も持たない。あーあ、とうなっているばかりだ。  けれどうなってばかりではしょうもないので、思いつくところをここであれこれ書いておこうと思うのである。  まとまりのない羅列的アイデアになるだろうが、必ずしも無意味ではなかろうと信じて。  まず根本的なスタンスの取り方として、紙媒体と電子媒体を切り分けることについては、まだもう少し検討を続ける必要があるように思っている。というのも、電子書籍の内容は基本的に紙の本と同じにする、という方向性がほぼ固まってしまったのではないかと感じるからだ。  かつて電子書籍が登場するにあたって、内部にプログラムを組み込めること、音声や画像をさまざまに利用できることを売りにしたものだった。が、このビジョンはあっけなく費えた、かに思われているはずだ。それは、出版というシステムそのものが「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」形になっているためである。言い換えれば、コンテンツをひとつ作成するために投下すべきコストがきわめて小さい(小さくできる)、ということ。そのわりに当たれば大きな収益があるために、出版点数を増やすことが基本的戦略になっていったのである。ということは、電子書籍にすることでコンテンツ作成のコストが大きくなるのはまずい。しかし映像や音楽を組み込めば確実に人件費が、しかも訴求力のある人材のコストは相応に大きく、必要になるのだ。この方向性が、基本的にうまくゆかないのは当然だ。なにしろ、売れる保証などないのだから。そこでどうしようもなく、コストのかからない道に進みたくなる。たとえば、出版する作品は現状ほとんど電子データ化されるのだから、ちょちょいといじって電子書籍も一緒に売ってしまえばチャンネルを増やすことになっていいだろう、みたいになる。当然、紙の本と基本的に同じ内容ということになるわけだ。  だが、だから電子書籍がこの形でしかできない、というわけではない。そこには単純に「出版社のノウハウ」を頼りにする限りは、という前提があるだけの話だ。  たとえば、ひとつの作品をひとつの形で、どこかで独占的に売るしかないという現状に対して、その必要がない、という具合に見方を変えてみたらどうだろう。  小説家が小説を書く。それはただのテキストにすぎないだろう。そこに、いろんな人が勝手にイラストをつけて販売できたらどうだろう。もちろん小説家にも相応のロイヤリティが支払われるべきだが、同時に、イラストレーターにも同等のロイヤリティ(である必要もない)が支払われる形だ。さらには、音楽や動画をつけて販売する人がいたっていい。  いや、そもそもの小説を改変して売ったってかまわないのだ。あらゆるバージョンが同等に入手できるようであるのなら、責任は改変した人が個々にとればいい。  さらにはシェアードワールドものにしてしまうことだってできる。オリジナル、というのがあやふやになることが問題ではあるが、そういうのもあり、という限定的処理を行うことは不可能ではあるまい。  ネットは、個人の可能性を大きくした。だが、個人の持てる能力には限りがある。なんらかのチームを作った方がいい場合だってあるだろう。しかしお仕着せのチーム作りにはそれなりの欠点がある。そこをクリアする方法のひとつとして考えられるはずなのだ。  もちろんこれは電子書籍の可能性のごく一部にすぎないだろう。  当然だが欠点もある。まずは、こうした流れを発生させられるだけの魅力的コンテンツが必要だ。さらには、権利関係を調整する必要があるから、きちんと管理できる、信頼のおけるシステムも必要になってゆくだろう。  さてところで、ではコンテンツが魅力的である、とはどういうことだろう。ここが見いだせないと問題なのだが、この話も実は漠然としている。  結論から先に言うならば、万人に魅力的である(絶対的に優れた)コンテンツなど存在しない。この話を始めるとややこしくなるところだが、少なくとも私は確信している。あるのはただ、万人にそれぞれ異なる魅力的コンテンツが存在しているらしいことと、ひとつのコンテンツに複数の魅力となるポイントが存在しうるということ。この前提において、多数の人間にとって魅力的と評価されうるコンテンツが成立可能であろうという推測。これだけだ。  いやもうひとつ大切なことがある。それは、現代の人たちの多くは、なんらかのコンテンツを消費し続けることを必要とするような状態にあるらしい、という条件だ。  こう書くと身も蓋もないのだが、つまり、「それほど魅力的でなくても受容される」コンテンツが少なからず存在、流通している、ということだ。そうして、そのような購買層によってビジネスは維持されてきたのである。  多くは、個人の感性や直感によってコンテンツは評価され、半ば確信なきまま送り出される、という面もあったはずで、それがたまたまうまくいった時に、それっぽいレッテルがついてきただけのことなのだ。  昨今、書店が能動的に作品を売り出す、という話が少なくない。手書きでポップを立てたりして「おすすめ」したりする。時には、本そのものを見せずに売る、などというケースもあって、しかもそこそこ成功しているらしい。  万人に魅力的なコンテンツが存在しない、という話と矛盾するように思うだろうか。が、「そこそこ」でかまわないという話とは一致するだろう。  実はこのあたりに、「魅力的」を取り扱う方法が見え隠れしているのである。  まず、「魅力的」はある程度まで保証される必要がある、ということ。絶対的には保証できないのは当然なのだが、魅力的であるという保証がまったくなされない状況は問題外なのである。  さらに、「魅力的」は細分化されうる、ということ。その評価は難しいが、魅力のポイントの有無は、ある程度まで信頼できる項目として取り扱えるはずだ。  もうひとつ。それは、先に誰かが評価している、という前例の有無が鍵になることだ。多くのケースで、ここが重要なポイントになっている。コンテンツ制作者ではない何者かが、なんらかの前例になっている必要があるのだ。  以上を踏まえて、コンテンツには評価ないし分類がなされるシステムが必要になると考える。それは、評論家なぞの「権威」という一面的評価ではなく、可能な限り多面的な評価を行えるようなものにする必要がある。  こうした条件(他にもあれこれあるだろう)をいかにして達成すればいいのか。  まず、コンテンツを最初に評価するシステムが必要になるはずだ。  ぶっちゃけ、こんなのは人工知能でもかまわない。が、当初は多少なりと権威づけが必要になる。  そうして、おそらくこのシステムは、コンテンツの販売とは異なるチャンネルで行う必要がある。「売らんかな」を抜きにしなければならないからだ。ならば、このシステムの維持はいかになされるか。それは、コンテンツ制作者が有償で「評価してもらう」形がベストである。  要するに、新人賞の「下読み」を作者が個人的に依頼するシステムである。それによって、最低限の「読む価値」を保証してやるのだ。  だが一方、完全なる素人の中に適切な評価者がいる可能性をきちんと配慮してやる必要もある。魅力が多様である、という前提にたてば当然だ。  ただ、難しいのは評価者も作者も完全に素人同士という状況はコントロールできないだろう、ということ。だからこそ可能性がある、という見方もあるが、パクリ同然の作品を内部的に高評価してしまうと面倒なことが起こるのは必然だ。  できれば素人の評価者をランク付けしてゆけるようにしておきたい。作者も評価者も向上してゆける状況と、その状況をきちんと明文化してゆけるシステムが望ましい。  ネット上に、お題を設けたさまざまな議論を評価してゆくシステム(遊びとして)を作っているところがあったが、そういう方法論が流用できそうだ。もっとも、このシステムをどのように利益化してゆくのかが難しい。開発も維持もタダではできないのだから。  まあ、実際に事業化しようという時には折々に必要な検討というのもあるだろう。どこかに「やる」という御仁があるならば協力するにやぶさかではないのだが……。  まあいい。先に進む。  電子書籍について、という枠組みでここまで述べてきたわけだが、出版というか、作品を読者に届けるビジネスを考えた時には、電子書籍にのみ限定して考えるべきではない。紙の本や書店というシステムについても、実のところまだまだ可能性はあるはずだ。  たとえば、オンデマンド出版に代表される技術革新、ローコスト化は、既存の書籍流通をベースにしつつ、新たな展開をもたらすかもしれない。  同人誌、自費出版という枠組みに、ここまで書いてきた評価システムや、チーム化による多様なコンテンツ作成システムを組み合わせてみただけで、相応の効果が見込まれるはずだ。  が、もっとやれる。  たとえば「ことりつぎ」というシステムがあるという。これは「自分の好きな本だけ並べた小さな本屋さんを、好きなときだけ開くことができる」というものらしい。ここに、オンデマンド本のシステムを組み入れたら、「町の本屋さんでは売ってない本」の本屋さんが作れるのだ。そればかりか、本屋さんが自分で売りたいように装丁を変更する、なんてことも条件次第で可能になる。  小さな本屋さんが、売りたいような本をプロデュースできる、ということだ。  もちろん、大手出版社にとっては面倒な商売敵になるかもしれない。が、話のもってゆきよう、という気もする。つまり、大量に売れる本を作り出したい出版社にとって、この仕組みはマーケティングリサーチになるかもしれないからだ。せいぜい数百というオーダーで運営可能になるようなシステムで、ノーリスクに近い形で「実験」ができることになる。さまざまな形で人材発掘が可能になる。  おおっと、そうはいかねえ、という感じになりそうなのが取り次ぎと言われる存在だ。書籍流通は「再販制度」ってやつでこれまで回ってきた。書店にとってはきわめてありがたいが迷惑でもある仕組み。この再販制度の立役者が取り次ぎといわれる、日販、東販などの会社だ。小さな書店が直接たくさんの出版社と取引するのはすごく面倒なことだが、これを代行してくれるのだ。  だが、大きな書店なら自分で出版社全部と取り引きすればいい、ということになる。これをやってるのが、つまりアマゾンなのである。  ということは、取り次ぎ店も尻に火がついている状態と言える。だがもし、ここまで述べたシステムを上手に取り込むことができたらどうだろう。そう、アマゾンでは入手できないコンテンツを自ら作り出すことが可能になるのである。  それでは不便だ、と思う人も多いだろう。アマゾンのような会社がコンテンツをすべてコントロールできるような状態にしてやれば、なんでも簡単に購入できるようになるわけだから。  だが、私にはそれが好ましいとは思えない。消費だけで語ればそうなるかもしれないが、コンテンツ制作という立場から見れば、多様な価値観を受け入れられるような状況こそが望ましいと思うのだ。要するに、いろんな人がいろんな価値観に従って多様なコンテンツが作成され、多様なチャンネルで入手できるようになることが良い、と思うのである。  消費せずにはいられない人が「そこそこ」の作品で時間を消費してゆくための商品はアマゾンで買えばいい。だが「だれがなんと言っても私はこれが好きだあ!」と叫びたくなるような偏向した作品は、そこからは入手できないはずだ。  そうして、そういう偏向した作品こそが、やがて人工知能がコンテンツを作り出すようになったとしても、人間が作り出す価値があるものであると私は思うのだ。  作品は、作者とそれを受け取る人の間に置かれるコミュニケーションツールであるはずなのだから。  おっと、少々脱線してきたようだ。  本日はこんなところで。

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