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短編が好き

 長編には長編の、短編には短編の面白さがある。双方に含まれるタイプの面白さもあるが、実はどちらか一方にしか含まれない面白さもある。  当然のようだが、当然ではないようでもある。長編になら短編の面白さを全部含むこともできそうに思えてくるからだ。  では、短編にしかない面白さとは、なんだろう。  たとえばそれは、事象の近さによってもたらされる感慨などではないだろうか。  大きな山を描いた絵からは、一本一本の木々がもたらす感慨は受け取りにくい。木の面白さを描くには木そのものを描く方がいい。と、このたとえはずいぶん乱暴なのだ。ただ、人の意識が同時に捉えられる事象の数にはきっと限界がある。そのため、細部はまとめられてマクロ化し、そのようにして取り扱うことになる。おそらく長編の長さがあれば、すべての細部をそのままに意識できなくなり、マクロ化をし、場合によってはマクロ化を重層的に行う階層構造を作ることで全体を把握するようになってゆく。それがいけない、ということではもちろんない。人間というハードウェアのスペックで、なんとかして大きなデータを扱う方法であるに過ぎない。ただ、作品の長さによって受ける感慨が異なる、という状況へのひとつの説明にはなっているだろう。  もうひとつ。  長い作品はどのみちマクロ化されて理解されてゆくことになるわけだが、そのマクロ化のルールや方法は読者にゆだねられている。そこに長編の醍醐味がある。対して、短いことが確定しているような状況であるなら、最初から作者が事象をマクロ化して取り扱うことが許容されるようになるのだ。こういう手法は、より短い作品の方が効果的で、ショートショートの書き方のひとつということにもなる。  能書きが長くなったが、結局は短編には短編なりの良さというものがあるのだ、と。当たり前の話である。  そうして、作者にとって短編の良さの最大のものは「終わる」ことなのだ。  長編というのは、書いても書いてもなかなか終わらないものだ。そりゃあたしかに十日もあれば長編小説を楽々書いてしまう、という人だっているだろう。が、たいていの人には無理だ。時には数年がかりで一冊分の原稿を仕上げるなんてことになる。この間、「面白いと思って書き始めた」はずのアイデアを、ずっと「面白いと思い続けてゆく」のはけっこう難しいのだ。  それが短編であれば、ひとまとまりの思いをひとまとまりの時間で形にすることができる。そして「終わり」にできるのだ。さらに、そうすることでさまざまなアイデア、考えを作品にしてゆくことができる。  日常は多様な刺激によって構築されている。作品を作り出す作業は、そうした刺激やそこから得られた想念を整理しまとめあげることだ、と考えられる。つまり、多くを切り捨てることで成立する。言い換えれば、作品にできない思いがたくさん残される。さっさとひとつの作品を「終わり」にできれば、次の作品にかかれるだろう。そうやって次々に書いてゆけば、だんだん作者の思いを全部書ききることにつながってゆける、のかもしれない。  いや、つまり、あれこれいろいろ考えたいタイプの私は短編を書く方が好きだ、ということなのである。まわりくどく説明しようとしているだけなのである。

 さて、三十年以上も小説を書く、という現場にあれば、いろんな短編を書き上げてしまうのもしょうがない。  しかし、これまで一度として、書き上げ、発表した作品をひとまとめにしてこなかった。それはひとつには、発表した作品のほとんどが、発表されるべき場を意識して執筆したものだったから、である。  どんな媒体であれ、どんな読者であれ、かまわず同じように作品を書く作家、というのもいるだろう。だが私は違う。いつだって、発表される場に会わせて、そこでこそ輝く作品を書こうとしてきた。多くの場合、場違いぎりぎりのラインを狙ったりはしてきたけれど。  だから、私の作品の多くは発表の場をなくすと輝きを失う。失うはずだと思ってきた。短編集はとてもとても魅力的だけれど、できれば書き下ろし短編集にしたい、と思うようなやつなのだ。しかし一方、書いて発表されて、それでおしまいになっている作品たちがいとおしくもあった。オンデマンドで作品を発表しようということになって、だから、まとめておくことにした。好きな人しか手に取らないという状況に、それはふさわしい気がしたのだ。  しかし、本という形を与えるなら、少しはそれらしい状態も作りたい。なんでもかんでもかまわずまとめたものではなく、少しは短編集という全体を面白がれるようでありたかった。  電子書籍なら大量の原稿を入れても平気だが、紙の本を前提とするなら分量への配慮も必要だろう。  かくして、短編集がふたつ作られることになる。  まず「小さなサーカス」だ。こちらには、ややホラー寄りの作品が収められた。  次に「大きなロボット」だ。こちらにはSF色のある作品を収録した。  もっとも、私自身が生粋のホラー者ではなく、どちらもSF風の理屈っぽさに満ちている。それが、つまりは私らしいということなのだろう。  自分が読みたいような形の本にしたら三百五十ページ近い本になり、販売しようとしたら二千円くらいもらいたくなった。が、それではなんだか高すぎる気がして、薄い版も作成した。  不特定の多くの人が、これで読みたいなら読める、ようになった。  好ましい状態で好ましい短編集と出会うのは、もしかしたらとても難しいのかもしれない。ひょっとしたら、たいていの人には「好きな短編集」なんて、ないのかもしれない。  それでも、送り出した二冊の短編集は、どこかの誰かの「好きな短編集」になってくれるだけの力があるのではないかと思う。  あとは祈るのみである。  ただ、面白く思ってくれる読者に、届くようにと。

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