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『君の名は。』感想

 面白くなかったかと言われれば面白かったのだが、二重の意味で面白くて、その隙間には大量の不満がはさまっているという、なんとも希有な、けれどきっとこれからはこうなるんだろうという予感を抱かせる作品だった。  もうずっと、「虚構が現実に浸食してくる感覚」が私にとって重要なテーマだった。しかし、なかなか結実させることができなくて、長いこと呻いてきたのだ。そうこうするうちに、私の予見したものはどんどん現実化していき、今さら騒ぎ立てることのむなしさは日々大きく育っていった。たぶん、分かってもらえないだろう。おそらく、無意味だろう。それでもあえて戦いを挑む、というほどには、私自身にパワーが足りないのだ。  そうして「君の名は。」だ。  人は「娯楽」とか「エンターティメント」だとか言って、私の危惧を一蹴するに違いない。が、それこそを私は危惧しているのだと、分かってもらえるだろうか?  面白ければ、それでいい。それが娯楽の有り様だ。そうして「君の名は。」は面白い。ならばそれでいいではないか、と。  だが私は、その「面白い」を、この状態のこの作品を「面白いと感じてしまう感覚の有り様」を問題視しているのである。その感覚が、一般化しているという社会を、危惧しているのである。  要するに、この映画、まるで整合していないのだ。理屈がおかしい。辻褄が合ってない。ツッコミどころ満載、というやつなのだ。考えれば考えるほど、おかしいところが出てくるのだけれど、それを計算しているのではなく、ある意味無視しているのだろうと思える。  だが、それでも成立してしまう。その、成立してしまう背景のところに、虚構が侵出してきた現実の、感覚が寄与しているのではないか、と思うのである。 (以下ネタバレ)  たとえばタイトルだ。  男女の体が入れ替わっている、という事件が起こる。にもかかわらず「君の名は」と問うことが約束されているタイトル。主人公たちは互いの名前を知らないことになるのだ。が、なぜ?  映画が始まってまもなく、彼らは互いの名前を知るところとなる。が、このくだりでは印象的に名前を問う感じはない。ならば、やがてふたりは出会うのだろう。その時に名前を「確認」するのだろう、と予想される。  ところが、肝心のシーンはラストである。盛り上げシーンなのだ。そうして、その時点でふたりは互いに、互いの名前を忘れているのだ。でもなぜ?  そういう理由を問う問いは、ことごとくはぐらかされるのである。あえて答えを述べるなら「その方が盛り上がるから」だ。それしかない。いっそ潔いほど、まともな論理性や整合性は無視される。だが、なにもないわけではないのだ。その代わりに提示されるのが、いつか見たことがあるような状況のリフレイン。  つまりこの映画は、一種のタイムトリップものであるわけで、その種の過去作品(たとえば「バック・トゥザ・フューチャー」)をなぞるのである。そうして「過去が変わってしまえば記憶や記録が消えてゆく」という状況を、なぞるのだ。理屈をなぞるわけではない。作品ごとに微妙に違う状況を無視して、「そういうもの」で押し切っているのである。  そもそも、そういう過去作品にしてからが、理屈はおかしかった。それは確かだ。が、多くの時間旅行作品は、まず、時間旅行というのが出来てしまったらどうだろう、という思考実験が始まりで、だったらこうなるのではないか、という理屈を積み上げて作られてきた。その上で、映像作品は演出上の工夫として、写真の中の人物が消えてゆく的なことを行ってきたのだ。ここのところに理屈はない場合は多い。とはいえ、そういう工夫自体のオリジナリティによって(また文字作品が行ってきた理屈付けによって)ある意味お目こぼしされてきたのである。  ところが、この作品ではそもそもなんにも心配しない。時間線が狂うというのは、そういうものなのだ、ということになっている。あえていえば、どうせありっこない状況を描いているのだから、なにがどうなっていたってかまわないではないか、と。なんらかの説得力があれば(そうして、それは過去のフィクションをなぞること)なにがどうだっていい。そういうものでしょう、と。  そうして、「それでいい」らしい。これほどの興行収益があがるのは、社会がそのスタンスを許容した、ということにほかならないからだ。  以前「シン・ゴジラ」の感想で、正当性を過去の作品への参照性で得ている、という話を書いた。庵野監督は私と同世代でオタクだから、そういう形で足場を築いているのだと感じる。一方、「君の名は。」も同じように過去作品への参照性を持っているわけだが、特徴的なのは、特定の作品への参照という形ではなく、漠然と過去作品、という印象があることなのだ。  これはなぜだろう。  おそらく、と思いいたるのが、過去作品の多さ、だ。タイムトリップもそれに関するパラレルワールド展開も、あまりに多くの作品が産み出されてきた。その中で、今さら「タイムマシン」だの「マイナスゼロ」だのと言ってもあまり意味がない。社会的には、そこに押さえておくべき教養的作品が、たぶんないのである。多くの視聴者が、それぞれ多様な同系作品の中の一部をのみ経験しているのだ。そうせざるを得ないのである。なにせ「娯楽」なのだ。刻苦勉励して基礎的教養を得る、なんてフェイズは要らない。また、「これとこれを見ておくように」なんて教師も不要なのである。  かくして、こんなふうに売れる作品になる。  いや、それだけではない。  タイムパラドクスものは、たぶん多くの観客にとってややこしすぎるのだ。とりわけ、文字で明確に事象が定義されているわけでもなく気になったからといって戻って確認することのできない映像作品においては、ハードルが高いのである。  そうしてこの作品は、そのややこしさを感じさせぬように作られているのだろう。  その鍵となるのが観客視点(読者視点)であるはずだ。複数の時間が流れるなんて、フィクションにおいてはごく普通なのだが、その行ったり来たりが、ややこしくなるもとなのだ。が、映画館の観客に流れる時間はシンプルな自分時間である。そこに合わせて作品の時間が調整されているのである。そのため、ややこしい話が観客視点として整理され、あたかもシンプルであるかのように作られているのである。そのシンプルさが、多くの観客に喜ばれるきっかけになっているのだ。戻って確認する、というかわりに、気になったら「また最初から」になっているのではあるまいか。そこにリピーターが生じる理由がある。  まあ、気になって戻ったところで、どこまでいっても便宜的な納得しか得られないのだが……。いや、だからこそ「もっと」となるのかもしれない。  たいへんによくできた映画である、と言っておこう。結局のところ、我々が生きているこの現実だって、個々人の認識においては、ほとんどなんにも確認行為を行うことのないあやふやな構造としてしか捉えられないのだから。(中二病が治癒せぬまま身過ぎ世過ぎで世知を身につけたような世界だなあ)  だが……。  社会がこんな調子だと、ある種のやつらにとっては騙し放題なんだろうなあ、とは思う。  私は、そういう「ある種のやつら」を憎む者である。

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