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縁とAんI

 縁、と言ってしまえばそれで終わり。ただそれだけの話ではある。  けれど縁は、接触のことではなくて、接触した後に引きずるなにかしらのことだろう。ならば、縁を語るには、それをひきずるに至ったおのれの特性や相手の特性が重要になる。  そう。AんIについて書いてみようと考えている。  AんIは、なんらかの組織であると考えて良い。かつては同人誌を何種類も作り、会合を持ち、合宿のようなこともやらかした、人間の集合である。  最盛期にはメンバーが三十人くらいいたはずだ。現在はというと、自ら「今でもメンバーである」と考えている人間は一桁だろう。なんとか毎月続いている例会に欠かさず参加してくる六人以外は、実質メンバーではない、のかもしれない。もっとも、退会などの手続きは存在しないから、メンバーであると宣言してしまえば否定されることはあるまい。  ただ、そこに縁がある。会合に行くかどうか、それがすでにして縁であり、行かないならそのぶん縁が薄い、と考えざるをえない。  ともあれ、残ったメンバーのほとんどが、自ら小説を書く者だ。特に、短い小説を書くことにこだわりを持つ者たちだ。そのようなこだわりは持つが、反面、商業出版とはうまく折り合いをつけられなかったケースが多い。  つまりそこに、それぞれの特性、縁を結ぶコネクタの形状のごときが集約されるのかもしれない。  会発足のそもそものきっかけは星新一ショートショートコンテストだ。今の星新一賞とは別物である。その第五回授賞式で、私と白河久明と井上雅彦が出会ったのだ(本当は少し違うが説明が長くなるのでこれは別の機会に)。この三人で、講談社に原稿持ち込みをしよう、ということになるのだ(たしか)。で、ついでだからと他の受賞者の連絡先を教えてもらい、声をかけ、会として発足することになる(おおむねそんな感じ)。  少し年上で、同人誌を作ってきた実績もあり、大江戸エヌ氏の会の重鎮でもあった白河氏に会長になってもらって会は活動を開始する。  なんとも楽しい頃だった。  それぞれの知り合いにも声をかけ、会は大きくなる。毎月集まって、ただバカな話をして解散する。そういう会だった。あまりに楽しいので翌年、さらに翌年の受賞者にも声をかけよう、などという話になって、会はどんどん充実していったのである。  正直、勢いである。  それだけで十分な頃だった。  もちろんショートショートは書いた。書かなければ持ち込みができないからである。書いて、読んでもらう。評価してもらう。こういう刺激はとても重要だ。そのようにして何度か雑誌(ショートショートランド)などにも掲載され、刺激され、刺激し、いずれは小説を書いて生計をたててゆこうじゃないか、と思っていたのだった。  まあ、あれこれ紆余曲折あったわけだが、実際このメンバーの多くが自作の出版にこぎつけ、まがりなりにもプロ作家と名乗るようになっていったのである。  おそらく最初の頃には、AんIはプロ作家になるための階段のごとき場であった。ただ楽しいから存続してきたようだった会は、間違いなく作品を商業出版というステージに運ぶ力になっていたろう。  だが、やがて時が過ぎ、デビューが決まりプロになるべき人物はプロになり、ならなかった人物にはならないなりの(なれない、ではない)理由や事情が確定していった。会がプロへの階梯として存在していたというなら、その役割は終わったのである。確実に終わったのに、それでも会は存続していた。  今も存続している。  それが、現時点での縁である、と。  つまりそういうことを言おうとしている。  逆に言えば、今会えない人には縁がないのである。  すでに小説を書いて発表しよう、というモチベーションは薄くなっている。だからこの会を足がかり(精神的なものや機会という意味だ)にしてプロになり、プロとして確実な活動を続けている人には、おそらく参加する意味が薄い。必死に書くことで地歩を固めているようなスタンスにいれば、会に参加することがマイナスに働きかねない。そういう必死さそのものを相対化してしまったりする場合だってあるかもしれないのだ。  そうなれば自然に縁は切れてゆく。  それぞれ家族ができ、優先順位からいっても古い仲間とくだらない話をするのが目的という会には参加しにくくなる、ことだってあるはずだ。その時に、時間を占有するプライオリティを下げてしまえば、もう元には戻らない。優先させるべき事象はいくらだって発生する。会には参加できなくなり、参加しなくなる。それで縁が切れる。  そういうのが時を経るということなのである。  もちろん、時も場所も制約されない心の中でなら、いつまでだってメンバーでいられるだろう。しかし、その「メンバー」として参加すべき会は、もうない。それはすでにイマジナリスペースの存在であり、追憶の中にしか存在していないからだ。  今も、AんIという会そのものは存続している。例会と呼ばれる会合そのものも各所に移動しつつ存続している。それは、会を存続させようという意志、もしくは腐れ縁かもしれないが縁そのものによる。その縁を引きずっていない者にとっては、なんであれもはや無意味なのだろう、と考えている。たとえば、そう、今の例会はそんなに面白いものではないのだ(たまには面白いが)。  いつか、それほど遠くない(三十年以上も引きずってきたことと比べればだが)うちに、私自身の縁も切れるに違いない。突然に死ぬのか、会合へと移動する方策が失われるのか、そのあたりは定かでないが。  考えてみると、残ったメンバーにはどことなく、終わりを予感する感触が共有されている気がする。だからこそ、それほど面白くない会に多大な労力を払うことになってでも参加する、という事態が維持されているのかもしれない。  いや、若干ひとり、そんなこと考えていない感じのする人物も含まれてはいるのだけれど。  今、会える人に会う。  ただそれだけのことが徐々に負担になり、やがて果たせなくなる予感を抱く。  逆に、もしも私に会いたいという人がいるのなら、会っておくべきなのではないか、という気持ちもある。それができるのも今のうちだけかもしれないのだから。  いや、そんな人はいない、のかもしれないが。

 会えなくなったら、さようなら。  では、そういうことで。

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