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語り継ぐということ

 終戦記念日だとか原爆投下の話題になると、かならず出てくるのが「この悲惨さを語り継ぐ必要がある」という話なのだ。  毎度思うのが、この種の話題づくりの気持ち悪さなのである。  いや、多くの人間にとって、自己の正当性を確保するのは重要な課題であって、なんらかの顕著な体験をした人たちが、その経験をしたことをアイデンティティにするのは当然であると思うし、それを「語る」ことによって正当性を確認してゆこうとするのも当然であると思う。  だが、「語り継いでゆかねばならない」と声高に言い立てるのはどうだろう。だいたいにしてからが、「語り継ぐ」のは他人の経験なのである。どうあがいたって、その話を聞いて自分が感じたことを伝える、という以上の状況は期待できない。体験した人本人が目の前にいるのなら、よくわからないところを問いただしてみたり、あるいはその表情などから言外のニュアンスを推し量ることだってできるかもしれないが、そこにワンクッションがはさまってしまえば、可能なのは記号化した経験の伝達にすぎない。それなら、語り継ぐなんてことより、文章化するなどのより整理された情報の蓄積こそが望ましいはずだ。  だいたい、どれだけ「語り継がれて」いるだろう。多くのケースでは、体験者本人に対する印象によって生じた恐怖心のような漠然としたニュアンスを、時には脚色したり演出したりしながら、「語る行為そのものの正当化」をしているだけではないのか。  ぶっちゃけ、語り継ぐなぞということを目的であるかのように説明はしているが、その底には、その話をネタにして勝手なことを語るための材料探しをしているだけではないのか、という気がしてくるのだ。  それは、「語ることの業」を持つ者の仕業である。  マスコミ、記者、作家などは、こういう業(ごう)を持つ者によってできている。正義のためとか、より良い世界のために、とかお題目は得意だ。そういうお題目によって自らの「語る行為」と「そのための準備」を正当化している。そうすることで自らのアイデンティティを守っているに違いない。  つまり、まずは語りたい者がある。この人は、語るべき体験を持っていない。あるいは、もうすでに語り尽くして、それでもなお語ろうとしている者である。こういう人が、語ることを持っている人の体験を語るために、つまり自分が語りたいことをネタとして持っている人の話を自分が語るために利用するのだ。語るべきことを語らせるというていで、実は自分が語りたいことを(編集や演出などの手段を駆使して)語るのだ。  いや、それ自体を否定するべきではない。  それは仕方のないことだ。  他人の経験を利用している、とはいうものの、なにかしらを語りたがる欲求は、認める。間接的体験であっても体験ではある。ひどい経験をしていなくても、ひどい経験について学んだり聞いたりしたことは、それもまた経験に他ならないからである。そういう(語るなどの)行為を通して、だれもが(こんなふうになった)自己を正当化しようとするのである。  ただ、「語り継ぐべきである」は違う。  たとえば戦争をするべきではない、という主張のために「どれほど悲惨な状況であったか」を語り継ぐ必要などはない。それはそれとして記録すること。その記録から「感じ取れる」力を育てること。さらには「戦争」という言葉だけで状況を語ったことにする愚かしさや、物事がどう転がっていったかについて整理することの方がよほど大事であるはずだ。  それから、話を聞くことはいい。体験について聞いてあげることと、体験した本人にしかわからないようなディテールを掘り起こすこと。聞くという機会を通して、さまざまな記憶や感情を記録できるようにすることには意味があると思う。そのようにして、相手の存在を承認してゆくことが、おそらく社会にとって大切な機能であるはずだ。  語り継がなくてもいい。  私はあなたの体験に興味を持ち、それについての話を聞きました、とそれだけでいい。  語り継ぐべき話なのだから、あなたはこの話を聞かなくてはならない、などというのは最低である。そんな脅迫を許してしまったら、そもそもの根本である「語り手に対する興味や敬意」が消えてしまうからである。  教育、という押しつけに意味がない、とまでは言わないけれど、やり方がひとつだけでは困ってしまう。時にそのようなバイアスが、大きな可能性をつぶしてしまうかもしれないのだから。

 で、戦争って、なぜやってはいけないのですか?  悲惨なことを巻き起こすから?  私はこう思う。  戦争などという簡単な言葉で表すからことの本質を見誤ってしまう。戦争は、あまりに多様な条件の複合体に対する「あきらめ」であると。武力という、いかにも物事を単純に処理できそうな方法に飛びついてしまったことが、戦争というフェイズに移行する力になっている。つまり、ひとつひとつクリアしなければならない問題を、ひとまとめにして処理しようとすることなのだ、と。  それで問題が解決するはずがないのだ。  悲惨な出来事というのは、無理に処理しようとしてコントロール不能に陥った状況の表出だ。だから、「うまくやれば悲惨さを避けられる」みたいな話は勘違いだ。そもそもうまくやれないから力ずくでやろうとしているのである。そこで無理すれば新しい問題点がどんどんが供給されるだけ。処理できっこない。  いや、ひとつだけ強引な方法で問題が解決できてしまうパターンがないわけではない。このケースでは悲惨な状況も現れない。  それは、「誰ひとり悲惨さを感じる人がいない状態」になることだ。  森の中で大木が倒れたが、その時になにも音がしなかったのである。なぜなら、誰も聞くことができなかったから。

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