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シン・ゴジラ感想

  • 執筆者の写真: Hajime Saito
    Hajime Saito
  • 2016年8月11日
  • 読了時間: 6分

 ゴジラがあるなら見に行かねばとか、庵野秀明が作ってるならとか、そういう義務感はない。ないが、ゴジラを一種の災害と考え、それにどう対応するか、という視点によって作った映画らしい、という話が聞こえてくるにつれ、見ておこうという気になった。  結果、面白かったとは思う。  おそらく、もっとも面白いのは、この映画をネタにあーだこーだと話すことにあるのだろうとは思うが。

 しかしここしばらく定常的に睡眠不足で、映画が始まってしばらくの間意識がなくなっていた、ということは書いておくべきかもしれない。  アクションを期待してはいなかったはずだが、あのトーンはきつかった。  さて、これ以後はネタバレありで思うところをつらつらと。  まず、序盤に出てきたゴジラ。変な感じだったわけだけれど、娘が言うには、あれはラブカなんだそうな。つまり羅鱶、鮫と同じような意味、で深海魚だそうな。  ああ、なるほど。状況的にいって深海魚がゴジラになった、ってのは面白い方向性ではある。どこぞのラジオでゴジラは爬虫類だろうとか、変態するから蛙みたいな意味で両生類だろうとか話してたけど、結局は魚類なんだな。手もあるけどおまけみたいな感じだし。で、ゴジラのラはラブカのラってわけ。目の焦点が合ってない感じなんか、なるほど深海である。  と、そのくらいのことはたくさんばらまかれたという小ネタのひとつにすぎないのでしょう。  ヤシオリって言葉、私はまったく記憶になかったけど、これを「常識じゃないの?」と言い放ったのも娘。ああ、そうなのか、と。やけに七面倒くさい作戦だと思ったけど、そっちになぞらえてるわけね。  つまり、ゴジラってのは災害として扱われている。で、そういう怪獣と災害がリンクしてるような話ってえと、そうか、日本神話のあれで。で、その話にはこのような展開があって、そういう展開自体がオタク的教養の一種であって、だからこの作戦はかなり強引だけれどそのようにしなければならない、のだ。  と。  そうか、そういうことか、と思い至る。  つまり、このゴジラには、強いオタク性と、逆に、そういった予備情報を持たない人に向けた「怖い怪獣」体験を与える作品との二面性を持っているわけだ。  オタク性というのは、作品に埋め込まれた大量の情報が、なんらかの参照元を持つ、ということなのだ。そうして、その参照元の多くがフィクション(もしくはテクストとかいうやつ)なのである。たとえるなら、長く築きあげてきた記号体系・物語のレゴブロックによって作品を作り上げようとする方向だ。だから、この作品に対して「見覚えのあるものが多い」という批判が生じるのも当然かもしれないのだが、その批判自体がそもそも無意味なのだ。そうしようと思ってやっているのだから。だいたい庵野秀明という作家は、最初からずっとそれをやり続けてきた人だろう。  一方、予備知識をなんら持たない観客は、逆に、予備情報に邪魔されない、いわば生理的感覚によって作品を受け止めることになる。もちろん、現代において、まったく予備情報ゼロということはあり得ない。なにしろゴジラなのである。そこでなにをするかといえば、漠然と観客が持っているゴジラのイメージをぶち壊す。焦点の合わない視線を持つ深海魚を「ゴジラでござい」と差し出す。そこに生じる違和感は「なんか違う。先入観を信じて進むとやばそうだ」ということになる。そうなってしまえば、観客はただ自己の生理的感覚によって作品を受け入れることになるわけだ。そりゃあ「怖い」でしょう。  というわけで、ひとつの作品にあたかも矛盾するかのごとき二面性を取り入れて成立させた、希有の傑作、と表される価値のある作品が『シン・ゴジラ』なのである。  と、ね。  ちょっと皮肉っぽく書いていると思われるかもしれない。が、作品を否定するつもりはさらさらない。十分に面白かった。  ただ、不安もあるのだ。不満ではない。不安だ。  オタク的な視野に立って作品を見る時、もしかしたら、リアリティ(ある種の正しさ)が情報の参照性に置き換わってしまっていないだろうか、と。  それで大丈夫なのだろうか、と思えてならないのだ。  たとえば、(はぐらかさずに書いちまうが)ゴジラを八岐の大蛇になぞらえて物語を組み立てる。ならば、ヤシオリの酒が必要だ。ならば、ゴジラにもなにかしらを飲ませるべきだ。ならばなにを飲ませるべきだろう。それには……。と、物語は逆算するように組み立てられていっただろうと思う。  しかしそういう「都合」は見えにくくなっている。そのことが「リアリティ」につながる。どのみち個人の感覚をトータルに扱うことなどできはしないのだから、参照性の高さ、ある種の既視感を積み上げることによってリアリティを確保する、というのはアリだ。実際、論文の正しさを引用件数で保証したり、グーグルなどの検索の正当性を保証するためにリンク数を使ってみたりするのと同じ考え方だろう。  だが、参照元もフィクションなのである。そもそも虚構にすぎないものを参照したからといって「正しさ」は出てくるのだろうか。  いや、そうではないからこそのリアリティなのだ。リアリティというのは、個人の経験をバックボーンにして発生するものなのである。そうして、現代の日本において、実のところ多くの「経験」がさまざまなフィクションによってもたらされているのだ。  そう、つまり、我々の感じているリアリティは、すでにして虚構、半ばうそっぱちなのである。  だからこその不安、不満ではなくて不安なのだ。ここまで堂々と、フィクション(もしくはマスコミなどの「報道」という記号化された現実)に対する参照性の高さを誇る、かつ、面白くて状況次第でトラウマの元になりそうな作品が、こうまで話題になって大丈夫なのか、と。  いやいや、そもそも最初の『ゴジラ』にしてからが、そういう「怪獣体験」という虚構の経験を社会に刻み込んだ作品だったではないか、と。そう思えば「今さら」であろう、と。  そうなんだよなあ、と思ってしまう。  今さら、なのである。  今さらなのに、だからこそ不安なのだ。しかも、それではいけない、と声高に主張できる論拠を持たないのだ。なんとなくまずいんじゃなかろうかと感じる。ただそれだけのことなのである。  まあしかし、やはり問題にするほどのことではないのかもしれない。  ここで問題となるのは、そのような社会的価値観で生きてゆく時に、思いもよらぬ出来事でそれぞれの価値観が壊されてしまう可能性、ということになるだろう。参照性では本物のリアルに対峙できなくなるかもしれない、ということだけだろう。  ならば、ここで問題点を認識できているなら、そこに限って私自身には問題にならないはずだ。他の人のことは、あえて心配してやる必要もあるまい。いや、そんなことはとうてい心配してやれはしないのである。

 しかし……。  ふと振り返って我が身を見れば、感じるのは、「本当の痛みを知らぬまま、マンガやゲームや映像を通して痛みを感じ蓄積してきた社会」であり、そこに「作品」を送り出すことのむなしさである。  ここでもうちょっと考えなしだと、「現実に痛みを感じさせる」みたいなネタに飛びついてしまうんだがね。そんなのは言い訳にしかならん、と個人的には思うのだが。

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