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大量殺人事件についての覚書

 相模原で起こった障害者に対する大量殺人事件について、書いておきたいことはあるのだが、急いでなにかしようとしてもまとめきれる自信がない。  だが、そうこうするうちにいろいろ忘れてしまうに違いないので、覚え書きとしてメモしておきたい。

 まず、犯人の考え方について。  障害者を世話する予算を取り去って、そのお金をほかに回せばいくつもの命が助かる、という考え方。これ、ちょっと正しそうに感じる向きもあるだろう。が、そうはいかない。あのお金をこっちに回せば、という論法はあちこちでなされるが、これは決して実現しない。それは、金持ちが高価なものを食べている映像を見て、「あの金をこっちに回してくれたら何人も牛丼が食えるだろう」と言うのと同じレベルの夢想なのだ。つまり、お金を払う人間と使う人間が別になるからである。お金は決して回してもらえたりはしないのだ。まれに例外が生じるように見えるケースもあるが、それは実のところ、お金を払う側がそのような状況をもたらすために行っているのであって、結局、払うやつの自由意志にすぎないのである。  というわけで、犯人の主張にはなんらの合理性はない。  とはいえ、それでも感じる違和感。  それは、社会の役に立たない行為に対して予算をつけ、その負担を社会が背負っている、という認識に対してではないだろうか。  こういう考え方は、理解できる。が、あまりにも一面的である、という指摘も可能だろう。つまり、「役に立たない」という評価が一面的で一方的なのだ。  たとえば公園に花を植える、という行為は果たして「社会の役に立っている」だろうか? 正直、ただそれだけで「役に立っている」とは言えないと思うのだ。だがそこには、さまざまな波及効果がある。単純に、見てなごむというのもあるが、それだけではない。たとえばゴミを捨てなくなったとしたら、ゴミ処理インフラに対してのコストが削減される。人が集まりやすくなれば治安維持にも効果がある。子育て環境にも波及し、周辺の不動産価格にも影響が与えられる。  今回の、「障害者は社会の役に立たない」というのも、同様に反論される。なにより大きいのは、手厚く保護された障害者は、だからといって排斥されるわけではない、という安心感を産み出す存在なのだ。いや、それがそのようになっているか、と言い出すと疑問もある。あるが、「役に立っていない」と決めつけるのは短慮である。  さらにつけ加えるなら、こうした「評価」が、少しばかり金銭的な感覚に偏りすぎている、ということも言える。金銭は数字であり、比較が簡単だから便利に使われすぎているきらいがある。金銭なんてものは、どこまでいっても便宜的なものなのだ。  障害者を、たとえば花であると考えれば良い。美しいとかどうとかいうのはどのみち主観にすぎない。咲くかどうかも保証はできない。それでも、たいていの親は大切に育てる。育てることそのものが、実は価値なのだ。相手も人間だから、いずれはその枠組みを越えようとすることもあるだろう(それを花と考えてもよい)。だが、それがあろうとなかろうと関係なく、花はある。人がある。それを金銭感覚だけで否定するのは単純にすぎる子供の論理だ。  さらにもうひとつ。  そもそも「社会の役に立つ」とはいかなることか。  人は皆、社会の役にたたねばならないのか。そのような義務は(憲法うんぬんは無視する。あんなものは人が「決めた」ものにすぎない)いらないのではないか。  子供がごねているような考えだと思うかもしれない。だが、そうではなく、逆であるのだ、と私は考えている。  すなわち人は、社会の役に立つような感覚を、好むようにできている、と思うのだ。言い換えれば、人は社会の役に立ちたいのだ(自覚していないケースも多々あるはずだが)。  なぜ仕事をするのか。それは本当に、収入を得るためだけだろうか。いや、収入を得るということ自体が、社会の役に立っているという感覚の代わり(つまり「生きていてもいいよ」というフラグを得ること)なのだ。  だとしたら、社会の役に立たない人は、本来必要とされるそのような感覚を得る機会に乏しい人たち、なのだ。そのような人たちを排除することが社会の役に立つ、とはとうてい言えまい。それどころか、大きな視点に立てば、彼らは他者を必要とする存在であることによって、より多くの「役に立っている」という感覚を提供してくれる存在でもある。つまり、そのような存在を排除してしまえば、人は「生きていてもいい」感覚を受けにくい、すなわち不幸せになりやすい社会に向かっていくことになる。  また、どのような手段であれ、ともかく生き続けていられるのならば、たとえば人類の遺伝子のバリエーションを維持している状態であると言える。今という社会には適合度が低くても、いつか人類という種を残す時には切り札になるかもしれない。だから、残せるならば残すべきなのだ。弱肉強食とか自然淘汰とか、進化について勘違いしている人も多いだろうが、残される種は強いのではない。より多く生き残る方策をオプションとして持つ種こそが生き残ってゆくのである(もちろん、多すぎて破綻するというケースだってあるだろうし、生かしておける余裕がなくなるケースだってあるとは思うが)。  社会の役に立たない存在を生かしておく、という状況は、ともすれば道徳とか同情とか、否定はしがたいけれど完全には納得できない思想を基盤にして語られてしまいがちだが、そのような雰囲気を作り出す根底のところに、以上のような背景がある、のかもしれない。  そもそものところ、今回の犯人が考えたことも、同情(もっと助けてあげるべき対象への)とかなんとか、そういう感覚が根になって語られてもいるようである。それは、食うものと食われるものがあった時、食われるものに一方的に同情するケースと、食えないことになったら大変だ、という食う側への同情が見えてしまった時の、すれ違い感覚のようなものだろう。そんな時に、ただ同情の対象が違うことで反目しあっても意味などないのである。それは結局、それぞれの立場によって変わるものでしかない。だから、その先を見据えてやらねばならないのだ。

 さて次だ。  ここまでの話とも関わってくるのだが、今回のケースで気になったのは、言葉の取り扱いに関する問題だった。  たとえば、「ヒトラーの思想がおりてきた」みたいな表現が何度となく報道された。  それで気になったのだ。  犯人は、視聴者が感じるような意味で「ヒトラーの思想」という言葉を使ったのだろうか? 大多数の視聴者が感じるのは、「ヒトラー(という悪人)の思想」であり、それはたとえるなら「世界征服をたくらむ悪の秘密結社」みたいな思想で、なんだかよく分からないがやたらと人を殺してしまうような思想、という具合に受け取られたのではあるまいか。  だが、たしか初期の報道では、ヒトラーという言葉を持ち出したのは別の人(施設の上司とかだったと思う)だったように感じられたのだ。だとすると、犯人が語った思想について、「ヒトラー」というレッテルを貼った人がいることになる。つまり「自分の考えているようなことはヒトラーの考えたようなことなのだ」と犯人が考えたとしてもおかしくない。もしそうだとしたら、犯人はヒトラーの思想そのものを、ほとんど知らないのかもしれない。  いや、仮説の連続であるから説得力がない、と感じるかもしれない。  ただ、私の感じたのは、そんなふうに鍵になる言葉があって、さまざまに繰り返し報道の俎上に乗ったりするけれど、そこで「伝わっていること」の空疎さなのだ。  犯人の書いた、殺人予告とも取れる手紙が報道された。それは犯人の生の声だ、ということになる。なんとも恐ろしいやつだ、という印象を生じさせる。  しかし、言葉を正確に読みとろうとどれだけ頑張ったところで、そもそもの文章が正しく、過不足なく書かれているとはとうてい言えないはずだ。まがりなりにも文章で飯を食ったことのある私は、文章をきちんと書くことがいかに難しいかは分かっている。とうてい満点には及びもつかない文章で、どうにかこうにか伝えようと努力するのが精一杯だ。なのに、あの殺人犯が、あまり頭がよいとは思えないあの殺人犯が、きちんと文章を書けているという前提に立つなんて、どうにも無理だと思える。思えるが一方、そこにある文章から読みとれるなにものかを、間違いだとか筆のすべりであるのだと断定することもできはしない。どうしようもない状況なのである。  そこにある文章を、公にできる立場の人は、たとえばその文章を発表する。それが「真実」であると主張することができる。なんとなれば、犯人が書いたということだけは「真実」であるのかもしれないから。そうしてそれを読んだ人たちは、その文章の内容を「真実」であるのだと思いこむ。あるいは、自分なりに読みとった内容を「真実」であると思いこんでしまうのである。  それでもいい、とは言えないと思うのだ。だが一方、ではどうするべきかも見えない。どうすることもできない。あえて言うならば、文章を正確に読もうとしつつも、同時に、文章そのものが正しくない可能性を担保しておくこと、とでもなろうか。  おおいに面倒な話なのである。だがせめて、文章を理由にだれかを攻撃する時には、思い出しておきたい。攻撃をした後で「間違いでした」と言って通るものでもないだろうから。

 最後にもうひとつ。  たったひとりが無抵抗に近い相手に対して一方的な殺戮を行ったという状況は、どうだったのだろう、ということ。  いや、これは決して職員を責めているわけではない。ただ、不思議なのだ。  フィクションの中では、一方的暴力とか圧倒的強さというのはよく描かれる。無抵抗になぶり殺される、なんてシーンもある。だが、それは物理的肉体を持たない存在だからこその話ではないのか。フィクションの登場人物は決して疲れないから、こそではないのか。  実際の話、今回の犯人は数百人を殺す予定だったはずだ。が、そうはならなかった。なぜなら物理的に不可能だったから、ではないか。とうてい朝までに終えられない。血塗れで疲れてくる。刃物は切れなくなってゆく。うまくゆかないのだ(その後、閉じこもった職員の存在が殺戮中断の理由となった、ということになったが)。  だが、であるならば、もうちょっと最初のほうに、うまくゆかなくてあきらめる、というタイミングがあったのではないか、と思えてくるのである。  結束バンドで抵抗できないようにする、というのはそんなに簡単なことなのだろうか。漠然とだが、フィクションの中に描かれてきた、「抵抗して死ぬ」パターンに(あるいは社会全体が)毒されているのではないか、という気がしてならないのである。  私は個人的に、「殺されそうなら殺しにかかる」と決めている。ずいぶん若い頃からだ。ただし、殺すための技量を上げるような努力はしない。 「最初に言っておくが、俺は弱い。弱いので加減するのは不可能で意味がない。最初から殺しにゆく。そのつもりでかかってこい」  まあ、こんな長台詞を言わせてくれるような相手なら、そもそもそこまで面倒なことにはならないだろうが。  いや、私が思うのは、他者に危害を与える行為は、もうちょっとハイリスクでハイコストでもいいのではないか、ということなのだ。  そうして、もしそうであるなら、みんながそう思えているなら、たとえ障害者相手であっても個人で大量虐殺なんて、できそうにない、と思えるのではないだろうか。できそうになく、あって欲しいのである。  なにかあったら、近くにあるもっとも固く重いものでぶん殴る。全力でだ。顔や頭をだ。素手しかないなら真っ先に目を狙う。  それでいいと思うのだ。アメリカなら銃を持ち出すところだろう。ただ、銃ってやつは、どこまで危険か分からない状況で使えるのが困るけれど。

 さて、これでアップしておこうと思ったのだが、くだんの事件に対して、「よくやった」的なツイートなどが少なくないらしい、という話を目にしてしまった。  やれやれ、である。  確実に言えるのは、こういう発言をするやつは自分が殺される側に回るケースをまるで想定していないということ。想像力皆無、いうなればバカ、である。「迷惑な相手を殺すことを自分は許容している」と態度表明してしまっているのだが、そういう言動そのものがすでに誰かさんの「迷惑」に他ならないのだから、ほんの些細なさじ加減で自分が殺されることになりかねないのだし、それを自ら認めてしまっているのだ。むろん、バカだから自分がなにをしているのか分かっていないのだろうけれど。  もうひとつ、「排除」という手段の安直さ、だ。税金の無駄遣い、みたいなことをマスコミが喧伝してきて、その対応には「カット」すればいい、みたいなことを言い出すバカが多すぎた。障害者の予算が気に入らないから障害者そのものをカットする、的な発想だと思う。予算ではなくそっちをカットしてしまおうというわけだ。  たしかに、そっちの方が「わかりやすい」。  つまり、ものごとを単純に処理しようとしすぎる社会は、そっちに行くのだろう。  やれやれ。

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