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間違ってはいけない

 セコいと批判されて知事が辞任に追い込まれた。  毎日毎日ワイドショーで責め立てられ、ひたすらセコいと責められて、ついに辞めた。  いやな気持ちになり続けたのは私だけだろうか。  程度はともかく、自分がセコいことは十分に自覚している。そのことを棚に上げて批判する気にはまったくなれなかったから、逆に、責められ続けているように感じていたのだ。  責めていた側だってセコくないとは言えないはずだ。それどころかそれなりにセコいことは証明されてしまっている。だが、それをまた責めている側、すなわちマスコミはどうだろう。いや、どう考えてもマスコミだってセコいだろう。町の声として放送されてきた映像の多くが、どうやら仕込みであったようだ、みたいな話もよく見かけるようになった。  しかしそれでも、マスコミは責められたりしない。もしも責められたりしたら、表現の自由だの報道の自由だのと言って、あるいは「わかりやすくするため」とかのたまわって、決して間違いは認めない。  認めてはいけないのである。  ひとつには責める役を維持するためだ。マスコミはいつだって、間違ったなにかしらを責めて、正しくする役、なのである。その役を担うものが自ら間違ってはいけない。もしも間違ったら、間違いを責めるという役割自体が成立しなくなってしまうのだ。  こういう話に対して、「程度問題」というのを使って事をおさめようとするケースがある。  まあ、そうなのかもしれない。  スーパーでレジがおつりを間違ったのを気づいて、なおかつ多く受け取ってしまうのと、建設予算百億のうち数億がごまかせると気づいたのでちゃっかりもらってしまうのを同じだと思ってもらっては困る、と。  うん。分からないではない。  でもね、程度の問題にしちゃったら、境界線が問題になるのだよ。そうして、そこのところは個人によってまったく違ってしまうのだ。数万でもダメなのか。数百円でもダメなのか、はたまた百万くらいでつべこべ言うな、なのかという感じ。結局、コンセンサスなんて築けない。だから実は程度なんて見てないのである。誰かが責めたら、自分のことは棚に上げて責める側に回るのだ。責めているうちは責められないという、小学生のいじめと同じ構造。そうなれば、程度問題なんて雲散霧消。悪いから悪い。ただそれだけ。たまに言い訳には使うが、実体はないに等しいのである。  というわけで、マスコミが程度の問題で責められていないのではない、と分かる。要するに、マスコミはいつだって責める側にいる、というだけのことなのである。当然、やつらだっていっぱい間違っている。だが、間違っても間違ったとは認めない。認めると責められる側になる。どうしようもない時は「個人」のせいにする。そういう個人を産み出すにいたるシステムにまでは決して切り込まない。そんなところに切り込んだら、訳の分からない膿がいっぱい出てくるのだが、責めるのはマスコミ自身であってその役目は決して他に渡さないのだから、自由自在にうやむやにしてしまえるのだ。  だが、そんなことになっている、ということについてマスコミは自覚しない。自覚することすらできないだろう。なぜならマスコミは決して間違ってはいけないのであって、ならばやってることは基本的に正しいのであって、ゆえにおかしな具合になっているはずなどない。きっと思いもよらないのである。彼らはただ、正義のためになんやかやと調べ、責める相手を見つけたら責め、責めることになったらともかくなんでもかんでも責め続けるのが正義なのだ。いつだってやってることは正義だから、正義をいくら積み重ねても悪になっちゃったりはしないのだ。そういう理屈なのだ。  だが、絶対間違わない、なんてできない。  未来はいつだって不確定であり、なればこその未来なのである。だから、いつかは必ず想定外になる。  わずかな間違いを間違いではないと強弁し、それを通し、通ればその間違いを判例にしてもっとゆるい規制によって次の、もうちょっと大きな間違いを通す。歪みが感じられるようになったら、なんなら正義という考え方そのものを都合良く変更すれば良い。まあ、元々正義なんてその程度のものだから。

 知事がセコくて辞任した。それはこの社会を象徴しているのだろう。  それはつまり、「間違ってはいけない」と押しつけてくる社会だ。マスコミのやり口を当たり前として身につけた人たちが住む社会だ。ひたすら他人の失敗をあげつらうことで、自分に落ち度があることを気にせずにいられるようになる社会。  つまり、しょっちゅう間違ったりミスしたりを自覚している私などは、住んでいてはいけないのである。

 さて、そろそろ次の都知事が決まる。  だれがなったとしても、なにかしら問題点があるだろうけれど、だれであれきっと「自分は間違っていない」立場で対応するのだろう。  それとも、もっと良い方法を使うだろうか。  それは、どこかしらの誰かを、生け贄に捧げ続ける、という方法である。自分よりちょっとよけいに悪いやつを、順にマスコミさまに捧げ続けるのである(笑)。  いや、千人やそこらはすぐに見つかるでしょう。

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