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本格ミステリと現実感覚

 本格ミステリには「解決」が必要だ。  これは「謎」(不可能状況。起こらないはずのなにかが起こっている)という非現実が、(なるほどこれなら可能であろうという)現実に回帰する状況、およびその描写のことであろう。  だが、回帰するという「現実」はいかに規定されるのだろう。その「現実」は、どれくらい堅固なものであるのだろう。ここ数年、そんなことが気になってならない。というのも、本格ミステリ大賞の候補作の中に、無視できぬほどたくさんの「現実」を改変している作品が含まれるようになってきたからなのである。  しかも多くの場合、改変された「現実」が、私には受け入れがたいものだった。というのも、どこがどう違うのか、という描写はなされるのだが、描写のなされていない状況においては、一般的とされるこの「現実」と同じものであるという暗黙の了解がなされているケースが大変で、「変わっているのならそこから派生的に生じる別種の現実感覚」は無視されているように感じられることが多いからだった。  いや、そう思い続けてきたのだ。  だが最近、それはちょっと違うんじゃないか、と見方が変わってきた。  そう、つまり、そもそも「現実」なんてものはないのだ、と感じるようになってきたからなのだ。あるのはただ、それぞれの「現実感覚」だけなのではあるまいか、とそう思えてきたのである。そうして、「現実感覚」なんてものは、個人にペンディングするものなのだから、正しいだの間違っているだのと上下関係を模索したり、違うことを糾弾したり嘆いたりしても意味がないのではあるまいか。もしも私の目には不可能に見えるトリックも、少なくとも作者は「アリ」だと思ったわけだ。ならば、その作者の現実感覚と私の現実感覚の違い、というところが問題になるだけのこと。自分の現実感覚の方がより正しいという保証などどこにもないのである。  ただし、自己の現実感覚はひとつあるだけで複数の現実感覚を入れたり出したり出来るわけではない。したがって、なにかしら評価だの判断だのをせねばならなくなったならば、自己の現実感覚をより所にして行うしかない、ということになる。  あくまでも相対的なものであることを自覚して、それを前提にする、というところが言い訳になる。  さてそうなると、誰かさんの書いた本格ミステリが、私にとっての現実感覚と異なる場合には評価不能になるだろう。良いとか悪いとかは言えないにしても、好きか嫌いかなら言える、ということか。  遠回りしたが、結局は最初の「このごろの現実を改変した作品に(私が)リアリティを感じられないのはなぜなのか」問題に立ち返ってくるわけである。  というのも、毎年ある「本格ミステリ大賞」の投票時期が近づいてきて、なんらかの評価らしきを行わなければならなくなるからなのだった(もちろん、そんなのは放棄すればいい、という選択肢もあるのだけれど)。  というわけで、ここで今年二〇一六年の本格ミステリ大賞の投票について書き残しておくことにする。なにぶん投票に付ける文章は短すぎて、私自身の問題意識を記そうとすればどうにも隔靴掻痒になる。つまらない誤解も生じそうに思う。いろんな割り切りも必要だが、せっかくの機会なのでまとめておこう、というわけだ。  さて今年の候補のうち、私の現実感覚においては評価できない、となった作が二作。『赤い博物館』と『死と砂時計』である。いずれの作も、作品が提示している「改変された現実」の整合性ではなく、そうではない「前提とされている現実」(つまりここが作者との「現実感覚」の違いであり評価不能に陥るポイントである)の捉え方に違和感があり、推理や論理の土台が揺らいでいるように感じられたからだ。  残り三作(『その可能性はすでに考えた』『ミステリ・アリーナ』『松谷警部と三ノ輪の鏡』)は、意外に思われるかもしれないがその違和感はほとんどなかった。いや、『ミステリ・アリーナ』は当初かなり違和感があったが、ラスト近くにおいておおむね解消された。この作品がこだわってみせている「ミステリにおける現実」問題には共感するところも多い。だが、そこを評価の鍵とするなら、『その可能性……』の方を私は採りたくなる。この作は、ミステリ的現実を記号化(たとえばキャラのあざとさは、いっそなにかのライブラリから呼び出したものであるかのようだ)する処理によって構造化プログラムのように作品を結実させている、と思える。事象を記号とし、時には呼び出し関数のように扱って、それによってなにごとかを描き出す、描き出しうる、と感じさせてくれた。たしか不満も多いが、ここで見せてくれた大きな広がりの前には目をつぶっておこう、と思えるのだ。さらに考えるなら、アリーナの方は最終的に提示された「作中の現実」に違和感があった。無理している感じ(それこそを評価したい気持ちもあるだが)がするのだ。一方『可能性』の方は、戯画化されていることが私のいる現実へのアプローチになっているようでもあり、好みのやり口なのだった。  さて、すると最後に『松谷警部』とどちらを採るか、ということになる。ある意味もっとも「現実」と切り結んでいる作だ、と言えないこともない(なにしろ私のいる「現実」には、本格ミステリのように取り扱えるような事件は見あたらないから)。だからこれこそを評価しておきたいという気持ちもある。ただ、正直なところ好みの方向性ではなく、正しく評価していると言うより理屈で評価してしまっているきらいがある。つまり評価自体を自分でも嘘くさく感じてしまうのである。  というわけで今回は、若さ(新しい才能)への期待、という意味もこめて「可能性」の可能性に一票を投じることにしたのだった。

 閑話休題。  本格ミステリと現実感覚について考察したいのだ。  いや、本格ミステリは「現実感覚」について考察するための素材として好ましい、と思うだけではある。現実感覚という考え方は、いろんなことのベースにあるはずなのだが、あまりにも基本的であるがために、実は互いに異なるのを持っているにも関わらず、さまざまな場面で同じひとつの「現実」として処理されてしまう傾向がある。おそらくそのために、多くの議論が無意味に空転するような事態がもたらされているのだ。  本格ミステリ作品の評価においても、そうした状況は生じる。いや、生じやすいとさえ言えるだろう。  しかしだからこそ、「本格ミステリ」というツールを用いればいいのではないか。実は違っている現実感覚、ってのをあぶり出して解析、理解し、対応する方法を見いだせそうな気がしてくるのである。たとえば本格ミステリにつきものの「釈然としない」解決がもたらす感じは、現実感覚の差を表面化(顕在意識化)させている感情なのではあるまいか。であるとするなら、逆に、現実感覚をさまざまに集めて研究、考察するための対象として本格ミステリを取り扱えるのではないだろうか。  ただしそのためには、過去の作品を下敷きにしたようなトリックを、無造作に取り入れている作品については、あらかじめ対象外として分けておいたほうがいい気がする。  ジャンル小説の、ジャンル小説ならではの「決め事」は、分離すべき現実感覚とは、またちょっと別の考察テーマ(たとえば、仮想的現実感覚の共有といった形)で扱うべきじゃないかと思うので。

 で、突然だがこれでおしまいである。私は研究者ではなく、専門家でもない。これ以上を語ろうとすれば普遍的なところをはみ出してしまいそうだし、それはただ信用のおけない話をもたらすだけだろうから。  なにか結論めいたことを書いておくとするなら、個人個人の現実感覚は違うのだと、いつも肝に銘じておくべきである、ということ。いや自分自身の肝に銘じておきたい、ということくらいだろう。  もちろん、ここまで書いたような考えを核にして小説を書くべし、ということもあるだろう。が、そんなものを書いても読者が喜ぶとはとうてい思えないのである。  まあ、それでも書いてしまうだろう。おそらく、私が抱いているたくさんの考えのひとつとして、ある作品の中に飲み込まれてゆく形になるはずだ。この場合、読者は喜ばなくてもかまわない。そういうものなのである。

(蛇足)

 結局、今年の本格ミステリ大賞は『死と砂時計』に決まった。

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