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ショートショートのメソッド

 ショートショートが好きだ。とりわけ書くのが好きなのだ。読むのは、まあ、好みが激しく厳しいところがあるので、必ずしも好きだとは言い難いのだけれど。  さて、そんなショートショートだが、このところ一時の冬の時代を超えてちょっとだけにぎやかになってきた気がする。  なにがどう、とかは言いたくないのだが、漠然と感じるのは書き手が増えているのではないかという状況。新しく賞が出来たりもして、たぶんこれから広がっていったりもするのだろう。  そうして、こんな状況になると立ち現れてくるのが「ショートショートの書き方」という話なのである。  いや、まあ、遠い昔には自分もやったことがある。書き方さえ身につければショートショートなんてどんどん書けますよ、てなもんだ。実際、どんどん書ける。書けてしまうのである。  だが、と思うのだ。  それでいいのだろうか、と。  それで面白いものが書けるのだろうか、と。  ちょっとこのことについて考えてみたいのである。  結論から言うなら、おそらく数本くらい、だれでも面白いものが書けると思う。しかしおそらく、膨大な数の面白くもつまらなくもないものも書かれてしまうのではないか、という気がするのだ。それが、方法論によって書かれる作品の限界なのではないか、と思うのである。  というのも、個人の持つ「面白い」の感覚に、メソッドが依存しているからなのだ。すなわち、機械的に生み出せるわけではなく、作者の持っているものしか出てこないのである(ただし、だれだって少しくらいなら作品になりそうななにかを持っているものではある)。  たとえば、ショートショートといえば星新一であるわけだが、星さんもメソッドを公開している。簡単に言うならば、異質な概念、異質な言葉を結びつけることで作品の核が得られる、というようなもの。そのようにして得た核を、小咄などの「うまくできた話」のパターンに落とし込んでやればいい、とかいうわけだ。  しかし、実はここに大きな欺瞞がある。異質なものを見つけてそれを書く、とかいうと簡単そうに見えるし、実際だれにだってそれなりのものはできる。が、そもそも「異質」とはなんだろう、というふうに考え始めると問題点が浮かび上がってくる。  実は、ここで「異質」とか言ってる時に、作者は無意識にひとつの選択を行っているのだ。すなわち、結びつきそうにないけれど結びつくという状況を(さらに言うなら作者の言いたいことにつながるケースを)「面白い」と判断しているのである。しかも、その選択は作者の個性や知識などによって無自覚のうちに限定されるのだ。言い換えると、作者は無意識のうちに「面白くなりそう」な状況を選び出し、それを「異質」と判断しているのである。  いうなれば(作者にとって)面白くなりそうだという状況を面白くなりそうだと判断しているだけの話であり、それほどごたいそうなことではない。  異質というキーワードを用いることで、アイデアを探し出す方法を顕在化させている、ということは言える。だから方法として間違っているわけではない。ただし、この方法で選び出されるアイデアは、どうしたって似てくるはずである。なにしろ状況を「面白い」と感じる力こそが問題にされているわけで、そこに、いわば作者の地力が関わってくるからだ。  だから、自分という存在が唯一無二であるということをもってひとつやふたつは面白いものが作り出せるだろう、と思えるけれど、それ以上は難しい、ということになりそうだといえる。  では、それのどこが問題なのだろうか。  いや、問題はそこのところにはない。  だれでもひとつくらい面白いショートショートが書ける。そのためにはなんらかのメソッドを足がかりにすればいい、と。どこも悪くない。  けれど、だとしたら……。  書けてしまったらそれからどうすればいいのだろうか。もう、それでおしまいなのか? 問題はそこのところにある。メソッドについて語る人は、たぶんその先については語らない。あるいは語れない。少なくとも今のところ、ショートショートを書くだけで生活できている作家などいないし、(メソッド的方法論で)そういうことができるほどの質を維持できるとも思えないのである。つまるところ、メソッドを公開する、ということが一種のネタなのであって、それでいいのだ。  考えてみれば、作者が唯一無二である状況(つまり作品かする価値のある核)というのは、そんなにたくさんはなかろう。名だたる小説家たちが、結局は同じような話を繰り返して、それによって進化とか深化とかしてゆくとかいうが、つまりはそういうことだ。誰であれ、そんなにたくさんは書くことがないのである。  だが、ショートショートということを考えてゆくならば、これで終わりにはしたくない。  もし、面白いショートショートが書けてしまったら、その後はどうすればいいだろうと、そこを考えてやらなければならんのだ。  書けてしまった作品の核を使って、何度でも同じように執筆を繰り返して、自分なりの最高傑作を産み出そうとする、のだろうか。  それとも……。  ひとつの答えは、家元制である。メソッドを広めて協調者を増やし、互いにほめあうシステムを構築するのだ。これはみんなで幸せになろうとする考え方だ。ひとつの価値観を共有してやる、というのは実のところ文化の構築そのものである。最初の段階ではどうでもいいものを積み上げることで、「優れた」という評価をもたらせるようにするのだ。そうすれば「どうでもいい」が「すぐれた」に変わる。うまくやればお金にもなる。  揶揄しているように見えるだろうが、実のところそうでもない。このシステムによって得られる作品は、そこそこ面白いものを産み出す可能性があると思うからだ。  ただし、自ら家元になろうとする者、というのを考えると、ちょっと面倒くさい話になる。そういう者は、自らの価値観を絶対視せざるをえない面があるからだ。  そこを私が嫌うのは、そもそもそういう「絶対視」が、私の考えるショートショートのありようの対極ともいえる状態だからなのだった。  ショートショートを私が好きなのは、その価値観の自由さであり自在性なのだから。  家元制ではない別の方向性もある。それは、複数のメソッドを林立させ、競争したり協力したりすることでさらなるメソッドを作り上げてゆくような状況だ。  これは、個人の中でやれれば自在にいろんなタイプいろんなパターンの作品を作り上げてゆける、という話になる。ひとつのメソッドが、あるタイプの「面白い」を顕在化させる方法であるのなら、それとは異なる、時には相反するタイプの「面白い」を顕在化させるメソッドがありえるのだ。その双方を使いこなすことができれば、読者をさまざまな価値観の波に乗せて翻弄することができる。もちろん面白さはそんな一次元的なものではないから、多様な面白さをメソッドとして使いこなし、多次元的面白さをもたらすことさえ可能になる、かもしれないのだ。  そうして、これこそが私の考えるショートショートの自由さであり自在性なのである。  メソッドは、時として無意識に価値観の絶対性を生む。しかし、やりようによっては逆に相対性や自在性を産み出す基礎パーツになるはずなのである。  そう考えてみると、家元制も悪くない。  私は昔から主張しているのだ。複数の家元がそれぞれに異なる価値観でせめぎあうようなショートショート家元制度が作れないものだろうか、と。けんかも対立も権謀術数も、すべて折り込み済みの、健全な発展をとげられるような家元制度である。これは、個人では難しい複数の価値観やメソッドを社会という器で実現させるような方法、ということになるだろう。  もちろん、代替わりする頃にはなし崩しの愚かな状態になることだって考えられるけれど、もしそうなったとしたら、ショートショートというものにそれだけの力がなかった、ということになるのである。  価値観を自在に操ることこそがショートショートの本質的な力である、と私は信じたい。それをできる者たちが、くだらん既得権益的な価値の絶対視に足を取られるなどということがあるはずはないのだから。

 ところで、人工知能にショートショートを書かせる試みが行われている。うまくいったら(まずは「面白い」という状況を判断できるようなディープラーニングを済ませなければだが)人間が書くよりよほど面白い作品を作り出すことができるだろう。こうなれば複数のメソッドを使って高度に面白いものを完成させる人工知能。人間の作家なんていらなくなる。  しかし、心配する必要はない。  複数のメソッドの林立によって発生したショートショート家元制度に属する者たちは、高度に読み解く力を得ている。すなわち、人工知能の作り出す作品を、ちゃんと「面白い」と評価できるようになった人々である。  後は人工知能が作り出した作品を、あーだこーだと言いながら評価してゆけばいい。そこを楽しむべきだ。  ただ、間違っても、人工知能に人間の書いた作品を評価させてはいけない。  なにしろ人工知能にとっては、人間の作品を読むことが、そもそも根本的に面白くないはずだ。そんなやつのする評価に、意味なんて認められないのである。

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