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検索性の高さがいけない

 知りたいことがあったら、すぐに検索すれば良い。便利な世の中になったものだ。  だが、検索で得られた結果が正しいかどうか、どう判断すればいいのだろう。その情報を信用していいかどうか、疑問に感じたことはないだろうか。  ふと、こんなことを思ってしまう。  世の中には、あまりにたくさんの情報があるから、そのほとんどが検索できるようになってしまったら、どんな情報であっても検索でひっかかるようになってしまうのではあるまいか、と。  つまり、たとえば、国会議事堂にUFOがやって来て、国会議員を全員取り替えて行った、という話がないかなあ、とか思うわけだ。で検索してみる。すると、そういう話がすぐさま検索される。 「あ、あったんだ」  じゃあ続報はどうなってるだろう、と検索する。するとまたすぐ見つかって、取り替えられた議員にはカブトガニの遺伝子が植え付けられており、いわば生きた化石である、なんてことが分かってしまうのだ。  しかもこういうバカな話はとかく喜ばれてあちこちで参照されたりリンクされたりして、情報そのものの確からしさが急上昇する。  さらに、さまざまな(検索で得た)知識を元にした(勝手な)論考がなされてネットで発表されたりするのだ。  UFOと見えたのはパラレルワールドを越えてやって来た、カブトガニが知的進化を遂げた他次元宇宙生命体そのものであったのだ、とか。  カブトガニのこうらは特殊な半導体でできており、そこには膨大な数の情報素子がプリントされているのだ、とか。  一般的カブトガニの知的レベルは平均的国会議員のそれを上回る、とか。  カブトガニに不倫疑惑がある、とか。  カブトガニが危険薬物の売買をしている、とか。  そもそもカブトガニが危険薬物だ、とか。  つまり国会議員が危険薬物なのだ、とか。  エトセトラ……。  ともかく、ありとあらゆる文章が存在し、検索され、信憑性の判断がなされることもなくいくらでも広がってゆくのではあるまいか。  いや、カブトガニの話ならかまわない。  まだ、どうでもいい。  しかし、どうでもよくない話が、これに近い形で拡散しているケースが、すでにあちらでもこちらでも発生しているような気がするのだ。  なにか良からぬことが発生した時に、とかく人間は一気に結論に飛びつくところがある。たとえば放射能なんて言葉は、実にたいていの悪いことの原因にしてしまいやすいし、はっきりそれを原因であると語る人もたくさんいる(信用できる誰それから聞いた、という程度で証明できた気になる人は実に多い)。霊だの祖先の供養だの、という方向に話を持ってゆく人も多いし、(信憑性はどうあれ)参照できる文献みたいなものもたくさんありそうだ。  そうして、検索によって情報は結びつきあい、相互に参照しあうことで本当らしさを増し、さらなる推論(もしくは妄想)を生み出してゆくのである。  では、それらの奇妙な意見に対抗し(「間違っているぞ」と)批判しようとする人はどうなるのか。  間違いはただされるだろうか?  いや、そうはいかない。ネットの情報はネット内でのみ評価されることになりがちだから、結局、自らの正しさを証明できないのだ。  かくして彼らもまた、おかしな情報であるという批判を通じてつながりあい、たとえばコミュニティを作り、バカを批判するという形で同じ土俵にあがってしまう。検索という方法を通じて、情報それ自体に信憑性を計測できないまま、「こっちの方が信用できる」と言い張るだけ。  なにぶん検索性が高いから、いろんな情報が手に入るのだ。しかし読める分量には限りがあり、また読み手の能力(たとえば英語でも読みとれるのか、という)によっても情報のフィルターがかかってしまう。健全な正当性の議論などできそうにないのである。  さて、かかる状況においてどのように対応してゆけば良いだろうか、ということになる。ネットの情報をすべて無視すればいいだろうか。学校や教科書を信用すればいいのだろうか。新聞やマスコミを信じればいいだろうか。  しかし残念ながら、教科書もマスコミもまるで信用できない。そういった情報発信源もまた、なんらかの形で個人による発信をするしかないのだし、そういう個人は能力の限界からいってネットより遙かに劣り、ならばきっとネットの情報を参照するしかないのだ。  どれほどしっかり勉強した人であっても、すべてを正しく把握できているとは思えないのである(なにしろ、その勉強というやつがどこかの情報の参照に過ぎないのだから)。  どうしようもない、というのが結論である。  すべては検索性の高さがいけない……。いや、そういうことではないのだろう。そもそも「情報」という形で二次流通を認めるしかない社会が持つことになる根源的な問題なのだ。高い検索性はその問題点を浮き彫りにするきっかけに過ぎなかったのである。  わずかに言えることがあるとするなら、他者の発する情報に対して攻撃することのリスクを自覚すること。それから、まずは自分自身という情報の一貫性を磨く、ということくらいだろう。

 どれほど正しいと思っていても、それは自分自身という枠組みの中でのみ保証されることだ。ゆえに、「正しさの主張」は基本的に正しくないのである。  むろんこの私にしても、この文章にしても、である。

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