老いと精度
- Hajime Saito
- 2016年3月18日
- 読了時間: 5分
ここ数年、踏むべきでないものを(あると承知しているのに)踏んだり、手を伸ばしたら湯飲みを指にひっかけて倒したり(もちろんビチャビチャだ)、壁や手すりにぶつかったりするようになってきた。 もちろん、老いてきたということなのである。還暦にはもう少しあるが、下り始めた坂で勢いもついてきた。 だが、ならば老いとはいかなる現象で、どうしてこのような結末をもたらすのだろうか、と考えたくなる。 身体がうまく動かなくなった、ということなのだろうか。まあ、そう考えるのは当然だ。けれど、いつもいつも動かないわけではない。もうちょっとうまい説明がつかないだろうかと考えた結論がタイトル、すなわち「問題は精度にあるのではないか」という閃きなのだ。 人間の身体は、そもそもそれほど高精度に動いているのではない。いきなり針の穴を通すコントロールがあるわけではない。動きながらフィードバックし、補正しながらうまく動いている。たしかそういうものなのだ。 ならば、精度が落ちるというのは「補正がうまく働かなくなった」ということなのだろうか。あるいは、手足の制御そのものが緩くなってコントロールができなくなった、ということなのだろうか。 一般的には後者のように考えられているのではないか。だが、本当にそうなのだろうか? ふと思ったのだ。 精度が落ちたというのは、レンジが変わったせいなのではないか、と。つまり、値の大きなデータを扱うために、基本になる単位を変更したのではないだろうか。 そう。もしかして、脳には、程良い桁数でデータを扱うために処理情報を丸める(たとえば四捨五入して切り捨てるような)機能があるのではないか。いや、いかにもありそうだぞ、と思うのである。 たとえば記憶という現象でも、そういうことが起こっていそうだ。つまり脳という記憶装置には明らかに容量の限界があるからその対策なのではあるまいか。世の中的には記憶する能力の低下、ということで老いを処理しようとするが、容量がいっぱいになった状態を思い起こせば分かるように、ただ能力の低下というよりある種の限界が来ていると考えるべきだ。空き室がいっぱいあるアパートならどんどん新規入居者に入ってもらえるが、満員になったら前の住人を追い出さなければなるまい。そういうこと。だとしたら、単純に「老い」で済ませられる問題ではないだろう。 いや、ちょっと脱線。 つまりである、記憶という情報はきっと整理せねばならないのである。優良な住人には住み続けてもらいたいが家賃滞納しがちなやつには出て行ってもらう、ということをしているのだ。 いやこれはたとえが違う。 つまり、住人をたくさん住まわせるために、部屋を多くするのだ。ただし建物の大きさは変えられない。そこで部屋を小さくする。いろいろ持ってる住人に荷物を整理してもらって小さい部屋になってもらう。そう、そこで情報の丸めが起こる。 記憶だけではない。情報の入力に関してもそうだ。幼い子供の頃なら、入力する情報はせいぜい家族のことくらいでいい。世界がどうなろうとそんなことは心配しない。心配するのはただ、母親の笑顔くらいのもので、それで十分なのである。が、長じるにつれて知るべき対象、感じておくべきことが増え、広がってゆくだろう。そうなれば、情報の精度は落とさざるを得ない。ママの機嫌については繊細であっても、学校の先生の機嫌については、ちょっとおざなりでいいし、そのようにしかできない。そうすることで視野は広がる。そのぶん大ざっぱになる。 と、そんなふうに「自己」が拡大してゆく。 拡大してしまったらもう元には戻れない。 感覚のレンジはそちらに固定しなければならなくなるわけだ。そうして大きなレンジに合わせてしまえば、当然ながら誤差も大きくなるのである。 感覚のレンジを広げて、グローバルな感覚だとかなんとか表現すれば、良いことだけのように扱われる。目先の情報の繊細な機微などが失われているとは思われない。そこに誤差があってもあまり重要に扱われない。結果的に「怒りっぽくなった」とか「泣きやすくなった」みたいに処理されることはあるだろうけれど。 さてそれに比べて、同様の「情報丸め」が身体の操作感覚に生じているとしたらどうだろう。 たとえばそれは、見た目は変わらないけれど心が巨人のそれになったようなものだ。 身長が一六〇センチくらいだったはずが、いつしか一六メートルの操作感覚になっている、ということだ。それはたとえば、二センチの隙間があれば誤差があってもぶつからないはずだった若い頃から、二〇センチなければ危うい状態になった、ということである。 そりゃあぶつかるよ。 タンスだの柱だのに足の小指をぶつけて「いてててて」とかなるさ。 考えてみれば「老眼」なんてのも遠くばかりをみるようになったレンジの変更で説明できそうな気がする。 困った事態であるのは間違いない。なんとかした方がいいだろうとも思う。 だからせいぜい、身体の感覚を取り扱うところは若くあるように心がける、ということか。こればかりはどうしようもなさそうだから。精度をあげるか、低い精度でも致命的ミスにならぬように生活を組み上げるのである。 怪我をしないように。 一方、頭の中だけで処理されるようなことは、大きなレンジになってもいいのではないか。下手に老いを心配するより、より大きなことを扱うような自分を目指すべきなのだろうと思うのである。 いつか、ぼけてまだらにしか考えられなくなる。だがそうなったら、人類の行く末だとか遙か過去のこと、いやいや宇宙の創世とか終焉クラスの思索もできる。若いうちには訳が分からなくなるような気宇壮大なことでも考えればいい。もちろんぼける前に準備をしておく、ということは必要だろうけれど。 みんなでやったら、なにか途方もないアイデアが生まれるかもしれない。つまり、精度を低くしなければとらえきれないほど大きなことだって、きっとあるはずなのだから。
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