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『コネクトーム』感想

 コネクトームという耳慣れない言葉を目にして(変な表現だなあ)この本を手にした。  つまり、脳内の活動は脳細胞の接続状況によって分かるはずだ、という考えにより、そのつながり具合を調べよう、コネクトームと呼ぼう、というような話らしい。  面白そうだと思ったのだが、やや期待はずれだったと言わざるを得ない。  脳の話はややこしい。そう簡単には分からない。だから本書が、初歩的なところからきちんと積み上げてゆこうとする態度には好感が持てるし、ところどころに「なるほど」と思う話も含まれている。  しかし期待したのは、脳内の配線のごときを読みとることで分かってきたなにか、だったのだ。本書では、そのためにどうすればいいか、どのような経緯を経てきたかは説明してくれるのだが、最終的に書いてあるのは「まだまだ読みとれるレベルに達していない」「けれど可能性は広がっている」だったりするのだ。  いや、それが出来たらどうなる、という話は書いてある。が、そもそも読みとれていないのだから、そうなるかどうかは分からないのである。  ただしまあ、どれくらい難しいのかを伝えようとしている、ということなのだろう。  なにかが分かる、ということを、素人は軽く考えてしまいがちだ。脳細胞がつながっている具合によって「私」ができている、とか言われたら、すぐにでも調べればいいじゃないか、という気になる。しかし、調べるとはどういうことなのか。脳細胞のつながり具合をデータにしようにも、そのデータだけで膨大な量になる。その上、どの脳細胞が具体的になにを処理しているのかを知るのはとてつもなく難しい(なにしろ、脳内の状況変化とそこに生じているイメージや感覚、思念などをつきあわせる方法がないのだから)。しかも、膨大な量の脳細胞は生きていればリアルタイムに変化する。これを動的にとらえなければいけないのに、そもそも人間の理解というシステムは動的状況を把握するのがすごく苦手なのだ。  要するにすごく難しいってこと。なのだが、これをきっちり理解できなければ「私」などという高度な概念を扱えるはずがないのだった。  つまり、そもそも期待する方が間違っていたのである。期待させるようなコピーがついているから、まんまと乗せられてしまったのである。

 とはいえ、本書に意味がないとは思わない。  心とか魂とか、そういう得体の知れない概念で「分かったことにする」のはもうたくさんだ。心も魂も「分からない」。なぜなら「分からないくらい複雑」だから。分かったような話でごまかさず、そういうスケールの話に落とし込むことができる、かもしれない。  世の中には「分かったような気にさせる」話があふれている。サルでも分かる、などと言う。だが、そういうのはいつだって「分かったような気にさせる」だけだ。いかに上手なたとえ話をしてみせたところで本質の理解には及ばない。  だからこそ「分からない」ことは大切だ。どこがどう分からないのかを見つけてゆくのは大切だ。  そうして、複雑すぎるものは分からない。もちろん投げ出せばいいというわけではない。ぎりぎりまで分かろうとすることなしに理解は広がってゆかないだろう。  私という現象は、とてもとてもたくさんの事象が統合されることで生じている。だからこそ複雑だ。けれどひとつひとつの事象には、霊だの魂だのという「調べようのない」ものを持ち出さなくてもいいはずだ。だから、ひとつひとつ調べてゆく。途方もない時間がかかるに違いないけれどやる価値はきっとある。  と、思うことができるだろう。  そういう意味が本書にはあると思うのだ。

 セバスチャン・スン著、 青木 薫 訳

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