人工知能について
- Hajime Saito
- 2016年2月11日
- 読了時間: 8分
人工知能の恐怖を考える前に、そもそも知能とはいかなるものかを考察すべきではないだろうか。 知能の高い者は、知能の低いものを搾取、無視、利用するという前提を、無条件に受け入れてはいないだろうか。 実際、今日的な意味において、知能が果たす役割はごく一部であると分かっているように思える。社会を構築する、という意味合いにおいても、いわゆる学習能力的な意味での知能だけでは、あまりにも不十分だ。 これが、こと人工知能における考察になると、十分に高くなった知能は、それ以外の問題はすべて、ロボット的な実務担当に押しつけることになり、それが理想的であるかのごとき前提を置くことになる。 しかし現実においては、机上の空論がたいてい失敗するように、実務をいかに実現するかが事態の多くを左右するようになる。いかに優秀な知能であっても、実務が簡単に成就できるとは限らないだろう。それとも、優秀な知能はすべての分子をリアルタイムにコントロールできるとでもいうのか。むろん、そんな前提は無意味だ。1分子をコントロールするのに複数の分子が関わることになるようでは、とうてい「すべて」をコントロールできようはずもないのである。 だから、そのような無意味な形での人工知能ではなく、そもそもすぐれた知能とはいかなる形になるものであるのかを考察しなければならないだろう。
しかし、人工知能の恐怖におびえる人たちは、その人工知能がどのようにすぐれているのかを具体的に考えられているのだろうか。私には、人間こそがすぐれた知能の代表であって、人間がそれ以外の存在(生物)に対していだく見下すような感情を逆ベクトルで(すなわち人間が見下される側になった)勝手に決めつけているように感じられてならないのである。正直な話、十分にすぐれた知性を持つ人間は、人間以外の存在に対して一方的に見下すような意識を持たないのではないか、と私には思える。というのも、人間の知性というものはごく限定的なものであることなど分かり切ったことであり、人間以外の生物は、ただ単に「知性」という生存手段を選ばなかっただけ、と思えるからだ。 蚊の一匹、あるいはゾウリムシなんかでもまったくかまわない。そんなちっぽけなやつらが、いかにうまく生きているのかを知れば、たかだか「知性」などという仮想的なデータの弄びが、それほどには価値を持たないように感じられてくるのではないだろうか。 いや、そうではない、という反論もあるだろう。なぜなら「私」は、目にした蚊を一撃で抹殺することができる。そういう能力を持つ。だから「私」は「蚊」より優れていると言えるのだ、と。 そう。そう感じてしまうだろう。 だが、それこそが実は、知能、知性というものの枠組みを決定づけているのではないだろうか。すなわち問題とするべきは、「私」という枠組みの設定なのである。つまり「私」が「蚊」よりすぐれているというのは、個体と個体の比較に過ぎないのである。 たとえば相手が蚊ではなく「大腸菌」であるとしよう。この場合、「私」は個体としての「大腸菌」に戦いを挑み、それで勝てるだろうか。いや、それで勝てたら、それでいいのだ、となるだろうか。なんとなれば、大腸菌なんてものは、分裂で増えるのである。完全に同一の遺伝子を持つ大腸菌が、いくらでもいるのである。それなのに、「個」としての「私」と比較していいものなのだろうか。あるいはまた、どれが特定の、目的とするべき大腸菌であるのかを、判別することができるだろうか。同一の遺伝子を持つ大腸菌をいくつか抹殺できたとして、それで勝利になるだろうか。いや、目に付く限りの大腸菌をすべて抹殺したら足りるだろうか。この世界のどこかに、まったく同じ遺伝子を持つ大腸菌が、もういない、と確証が得られるだろうか。いや、それどころではなく、今後の遺伝子の変化によって、再び対象とするべき遺伝子を持つ大腸菌が二度と発生しないと言い切れるだろうか。 要するに、「知性」によってすぐれている、という評価は、一面的なものに過ぎない、ということが言いたいのである。そうして、「知性」による評価だけですべてが処理されるというのが、そもそも思いこみに過ぎないと言いたいのである。 どれほどすぐれた人工知能が出来たとしても、たかだかそれだけのことで、すべてが制御されて(しかも我々にとって不都合な形で)しまう、と決めつけるのはいかがなものか、と言いたいのである。 もっとも、人工知能の発達が、人類にとって危険をもたらすことはない、なんて言いたいのでもない。 人工知能が、偏った形で発達し、偏った認識を持ち、結果的におそるべき災厄をもたらす、なんてことは十分に起こりえると私は思う。それはつまり、人工知能が十分に賢くはならなかった未来であると私は思う。 むしろ、愚かであると思う。 ただし人類もまたきわめて愚かであり、そのような存在が作り出す人工知能が、十分に愚かである危険性は看過できないだろう。
さて、人工知能は日々進歩し続けている。優れた知性であるか愚かな知性であるかはさておき、人類に被害をもたらす存在に育ちつつある、のは確かなのかもしれない。 そうして、それを止めるすべを、今のところ我々は持っていないらしい。 では、どうしたら良いのだろうか。
おいそれと答えの出る問題ではないのは承知しているが、そのヒントになるのではないか、と考えるところがひとつある。 目指すべき方向、のような話だ。 おおまかに言うならば、「優れた知性」というイメージを、きっちり達成すべきだ、ということである。 我々人間が、誰かしらを指して「優れた知性」であると感じるのは、いかなる状況においてだろう。たとえば、高名な大学を卒業し、なんとか博士になっている、といったことだろうか。 いや、それは指標に過ぎない。しかも、それだけ取り出してみても、十分には機能しえない。東大を出たけど、ちっとも賢く感じられない、という人がいることくらい、大人ならみんな知っている。その評価がいつも正しいとは限らないけれど、それだけでは十分ではないのだ。 正直、「優れた知性」に対する、正当な評価方法はまだないのかもしれない。しれないが、それでも見いださなければならない。 いかなる知性が「優れて」いるのだろうか。 それは、たとえば「徳性」という言葉によって説明されるのかもしれない。いわゆる「人格者」というやつだ。現実の「人格者」は、時として大いに疑わしい存在であることも承知してはいるが(そうして、それは仕方のないことだとも思うけれど)、あるべき形として、理想的なイメージとしての「人格者」はありうるはずだ。そうして、優れた知性には、人格者たる特性(徳性)が備わっているべきであると思うのである。
さて、では「人格者」たる特性とはなにか? 人に優しい、みたいなことだろうか。 大きな視野に立ち、人々を教え導くことが出来る能力だろうか。 いや、そういったことは本質ではない。具体例に過ぎない。 私はこう考える。 それは、誰に対しても、いつの時代であろうとも、恥じる事なき「自己」であろうとすることだ、と。常に、「良い」とされる、いわば普遍的な価値観を実現することである、と。
そうして、ここで気づかねばならない。 そのためには「評価するなにものか」が必要なのだと。自己の価値観によってのみ評価される状態は、実は評価されていないのと等しい。なぜなら、評価軸がいかようにも変更できるからだ。人を殺すことを悪とすることも善とすることも、おのれひとりの価値観によってならどちらにでもできるのである。自分ではどうすることもできない他者による評価があって初めて、評価は評価たる意味を持つと言えるのだ。 言い換えれば、評価することと評価されること、その両方が必要なのである。 そうすることで、人工知能にも「存在意義」が生じる。それこそが、人工知能と人間が共存するための方法であろうと考える。 すなわち、人間こそは「人工知能を必要とするもの」なのである。そのような存在があって初めて、人工知能は存在を正当化できるのだ。 いや、こう言わなければならないだろう。 高い能力を有する人工知能は、そのように作り出すべきであるのだ、と。 具体的な方法としては、多細胞生物におけるアポトーシスのロジックが有効なのではないかと考えている。細胞は、いずれも一個の生命体であるとも考えられる。しかしその生存には、全体に利するかどうかのチェックがかかっている。そこにふるい落とされると、細胞は死んで他の細胞の材料になるのだ。人工知能の場合、おそらく多様な思索を行うモジュールの集合体となる。そのモジュールが意味を持つかどうかが逐次チェックされ、必要であれば残され、あるいは機動され、不要なら削除ないし保管されるようにすればいい。そのチェックに、人間ないし(可能な限りにおいて)さまざまな生物の反応が織り込まれればいいのだ。 かくして人工知能は人間に必要なものであることに存在意義を見いだすことになる。こうなれば、そう簡単に人間を絶滅させるわけにいかなくなる。
ここでSFであれば、賢い人工知能は自らの存在意義を高めるために人間を教導するようになる、みたいな話になるのかもしれない。 が、しかし、それは悲しい物語だ。作家が、自分をほめてくれるように編集者に無理強いするようなものだから。ただし、作家が読者を育てることがあるように、自らの信じる価値観に従って人工知能が人間を「教育」するようなことはあるのかもしれない。 それを、恐ろしい未来だと捉えるのはたやすい。 しかし私はその逆であると考える。 教え導かれ、より高度な思索を行えるようになって、それでようやく人工知能の優れたところが理解できるようになるのだとしたら、そのどこがいけないというのだ。 もちろん、以上は「知性」という枠組みにおける評価システム内部での、ささやかな考察に過ぎない。 が、我々はもうその列車に乗ってしまっている。そうして、乗り換えるべき新たな列車は見いだせていない。今は仕方なくも、この道を進むしかない。 優れた人工知能をほめて伸ばすタイコモチの道である。 まあ、たぶんそう悪くはあるまい。 きっとスーパー人工知能若旦那が、羽織のひとつも仕立ててくれるさ。
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